今回もはじめに記すのは、わたしが性売買の現場にいた頃に体験したことだ。
性売買での経験を書くことには、いつもためらいがある。
同じような傷を負った女性がこれを目にして、恐怖や悲しみを再体験するかもしれない。
性にまつわるテキストはすべてポルノだと信仰している男達に、マスターベーションの材料にされるかもしれない。
個人情報を特定されるかもしれない。
そのような懸念はいつもある。
けれど、こうして現実を語らなければ、性売買の密室の中で起きている破壊的な暴力を、社会に知らしめることはできない。
わたしは性売買の密室を暴き、日の元に晒したい。
あの密室で起きたこと、男達が起こしている暴力の数々を。
だから書くのだ。
娘と同じ名前の女を選んで買春する男
「娘と同じ名前だから、きみを選んだんだよ」
そう言われて、わたしははじめ意味が分からなかった。
男はどちらかといえば裕福そうな身なりで、年齢は40過ぎか、50にはなっていないかといったところだった。
わたしはデリヘル嬢で、そこは男がとったホテルだった。
男は終始にこやかで、温厚だった。
わたしの話にうんうんと楽し気に相槌をうち、なにか言う時は芝居のセリフのようにわたしの源氏名を呼んだ。
そして裸でベッドになだれ込んだ時、まるで秘密を打ち明けるように言ったのだ。
「娘と同じ名前だから、きみを選んだんだよ」
その意味を理解するまでに、それほど長い時間は必要なかった。
わたしが男の身体に触れたり、その求めに応じたりしている間、男は何度も何度もわたしの源氏名を呼んだ。自分の娘と同じ名前を。
「〇〇、お父さんのこと好き?お父さんが好きって言って。早く、早く」
ことが終わる直前に男はそう口走り、さっさと終わらせたかったわたしはそれに従った。
男はわたしを買って性的に虐待し、わたしを通して実子を虐待する妄想に耽っていた。
わたしは売られたモノとしてだけではなく、男の娘の身代わりとしても虐待を受けた。
男は娘を性的に虐待したいと望んでおり、金で買った女の身体でそれを疑似的に達成したのだ。
その欲望が、さらに娘に近い年齢の女性や、あるいは娘自身に向かわないと、一体どうして言い切れるだろう?
実際にその男が娘とどのように生活しているのか、わたしには知る由もない。
ただ、不快と不安だけが残った。
性売買の現場にいて、怖気をふるう状況に遭遇したことは数多い。
これは、そのうちのひとつだ。
タイ人の12歳少女が、日本の性売買店で虐待されていた
あれから何年も経ったが、性売買の暴力構造は今も変わらず機能し続けている。
性売買を肯定し温存したがる者達は、その構造に内包された問題も、現場でくり返される直接的な加害も、決して直視しない。
それどころか、性売買が存在することで性暴力や性犯罪が減り、“一般女性”への被害が抑えられるのだと妄信している。
彼らにとっての“一般女性”に、買われる女性達は決して含まれない。
その妄信がいかに男にとって都合のいい幻想であるかを、先日報道された事件がはっきりと示している。
先日、タイ人の12歳少女が東京都内で保護された。
彼女は都内の個室マッサージ店で接客をさせられており、33日間で60人の客の相手をしたという。
ここで起きたことは、マッサージでも、接客でも、サービスでも、なんでもない。
正しく言い換えよう。
彼女は都内の性売買店に一か月以上にわたって監禁され、60人もの男から性的虐待を受けたのだ。
少女を監禁していた経営者の男女は逮捕され、少女を日本に連れて来た母親も拘束されたとのことだが、彼女を直接虐待した男達も全員捕まって、相応の刑に服すべきだろう。
そして、性売買システムの被害者である少女とその母親には、正しい支援の手が届いてほしい。
性売買が存在するおかげで性犯罪が少ないという説は、どこにいったのだろう?
買う側だけが厳重に守られる性売買というシステム
これはひとつの事件にすぎない。
しかし少女の上に降りかかった暴力は、この社会のあらゆる場所で形を変え、くり返されている。
性売買を正当な労働だと言い張る者達が、セックスワークイズワーク!と、寝言をたれてふんぞり返っている横で、常に、買われる側は“売った責任”を押しつけられて沈黙を強いられ、買う側の論理とプライバシーは大事に大事に守られている。
男達は、金を払ったのだから自分達には正当な権利がある、女が同意の上で売っているのだから女に責任がある、と言い張る。
そのような都合のいい虚構の中で、彼らはぬくぬくと他人を蹂躙する権力をふるうのだ。
その虚構こそが、性売買というシステムと制度を支える根幹だ。
それは個々の男が抱く妄想ではなく、社会そのものの信仰でもある。
今も昔も「男は女を買える」という信仰は、空気のようにこの社会に蔓延している。
“違法商品をつかまされた可哀想な被害者男性”
タイ人の12歳少女が日本国内で性的虐待を受けていた事件を受け、ネット上ではさまざまな意見が飛び交った。
買った男も摘発されるべきだという意見が大勢を占める中で、女性を買うことをなんとしてでも正当化しようとする意見もあとを絶たない。
「売られていたから買っただけ」
「店を信用して買ったのに」
「盗品を購入させられたようなもの」
「ハニトラだ」
「とんだトラップカードだ」
「子どものような見た目の成人女性もいるのだから、少女の年齢に気づかなかった客に落ち度はない」
彼らは、こういった発言を本気で言っているのだろう。
事件に憤慨するひと達を挑発したいのではなく、心の底からそう信じているのだ。
彼らにとって、女は日用品や娯楽品同様に買えるものであり、それらが“市場に出ている”以上、正規のルートで金を払えば品質は保証されている——そう信じて疑わない。
性売買構造を温存する社会は、子どもの性搾取へと容易に結びつく
罪悪感なく人間を買える社会では、暴力は取引の一環として回収されていく。
女性の身体にどこまで接触するのか。
苦痛や危険を伴う行為をどこまで許容させるのか。
それらを金で買うことは単なる買い物となり、人間が個別に持つ境界線や尊厳はあっけなく踏みにじられる。
そして同時に「男は女を買ってもいいのだ」という規範を、社会に静かに刷り込んでいく。
こうして「男が女を買う」という行為は、暴力と支配を包み隠したまま、社会の常識として根を張り続けている。
「買える」という幻想が蔓延っているのだ。
その幻想の先にあるのは「品質が保証されていれば、成人だろうが未成年であろうが、合法的に女性を買うことできる社会」だ。
タイ人の12歳少女を買って虐待した60人の男達を、まるで欠陥品をつかまされた被害者であるかのように語る者達は、その醜悪で暴力的な幻想をすでに現実として生きている。
しかし、その幻想が、単なるフィクションやジョークだと言い切ることは、決してできない。
子どもが性的に搾取され、性暴力の被害に遭うことは、性売買を容認する社会の風潮と地続きだ。
それは遠い地平線の彼方にあるのではない。
すでに、わたし達はその暴力が黙認される社会に生きている。














