10年以上性売買に従事した中で、買う男達の奇妙な言動や性質とも呼べるものを数多く見てきた。
その中で、いまだに不思議でならないのが、
『なぜ男達は、不潔な身体を平然と他人に見せつけ、触らせることができるのか?』
『なぜ男達は、清潔に配慮してほしいという要望に対して、不満や怒りで反応するのか?』
ということだ。
性売買というのは、非常に特殊な状況だ。
客の男も、性売買に従事する女性も裸になる。そして数分前に会ったばかりの相手とキスをしたり、粘膜を舐めたり、性器を挿入したりする。コンドームを使用する場合もあるが、ほとんどが直接の接触となる。
この異常さは説明するまでもないと思う。本来ならば。
医療従事者が、全裸で患者に相対することはあり得ない。消防士や高所作業員がTシャツにサンダル履きで現場に赴くこともない。
どのような職業でも、安全と衛生への対策は万全であることが求められる。
他者の身体に直接触れる仕事であればなおさらだ。
性売買だけが、そうではないのだ。
安全対策や衛生管理などの行動は、男の勃起を萎えさせる無粋さとしてむしろ忌避される。
フェラチオにせよ挿入にせよ、じかに接触することが“高級なサービス”として推奨され、それを拒否する従事女性は、店からも客からも、仕事ができないと評価されてしまう。
このように危険極まりない“業務”であるから、性売買では多くの場合、客に対して「プレイの前にはシャワーや歯みがきを実施してください」と、呼びかけている。
しかし、危険な接触前の準備だと説明されてもなお、男達の多くは「清潔に配慮してほしい」と面と向かって言われることに、平然と不快感を表明する。
王様は歯みがきができない
一体、なぜ彼らは平気でいられるのだろう?
強烈な体臭、食べかすが詰まった歯間、汗でドロドロになった衣類、腐敗したドブのような口臭、何日も洗っていないかのようなべとつく髪、尻の毛に便と紙のカスが付着したままの男さえいた。
これらは一部の特殊な例ではなく、ほとんどの客が多かれ少なかれ持っている不潔さだ。
けれど男達が、それを見られて恥じるようなことは、まずない。
自らの不潔で見苦しい点を隠そうともせず、むしろ従事女性から積極的に触れてもらって当然であるかのようにふるまう。
それどころか、前述したように「清潔に配慮してほしい」と依頼されただけで、不満や怒りを表明することも珍しくない。
この現象は、単なる衛生的怠慢では説明できない。
そこには『見られる性として社会化された女性』と『見る側として社会化された男性』という非対称性が存在している。
先にも記したが、性売買では物理的な身体の接触が行われるため、従事女性はうがい・歯みがき・シャワーの実施を徹底する。
しかし、多くの男達はそれら衛生対策を回避したがる。
「時間がもったいないから」
「家で風呂に入ってきたから」
「汗をかいてないから」
「いかにもプロっぽくて萎える」
「つまらないことを言わないでほしい」
そんなふうに文句を言うだけにおさまらず、実力行使で従事女性をベッドに引き倒そうとする男も少なくない。
歯みがき後「いっしょに歯みがきしてあげるボクって、いいお客さんでしょう?」と、誇らしげに胸を張る男さえいた。
彼らに共通して見られるのは、不潔さへの鈍さと同時に『風俗嬢から指示されることへの拒絶反応』といえるものだった。
男達は、シャワーや歯みがきという基本的な衛生対策でさえ、従事女性から指示されることが我慢ならないらしかった。
しかし、それも彼らにとっては当然のことなのかもしれない。
なぜなら、彼らは数千円あるいは数万円を払って“時間貸しの性奴隷”を買ったのだから。
金を出して買った女性とふたりきりになっている時、彼らは王様なのだ。
歯みがきができず風呂にもろくに入れないが、ポルノの真似事だけはできる、まさに裸の王様。
奴隷は王様にむかって「歯をみがけ」「風呂に入れ」とは言わない。ただ奉仕するのみだ。
男にとって性売買従事女性から指示されるというのは、下位の者が身分もわきまえずに指図してくるということになるのだろう。
不潔さに気づいてないわけではない
それにしても、やはり素朴な疑問はつきない。
『なぜ男達は、不潔な身体を平然と他人に見せつけ、触らせることができるのか?』
不潔な部分を人目に晒して触られて、なぜ不安や羞恥ではなく、性的興奮を感じられるのだろう?
実際に男達が自らの不潔さにまったく気づいていないとは思えない。
自分の身体の臭いや不快感を一切感知できないことはあり得ないだろう。
なにより、性売買においては、特に不潔なことを女性が我慢して提供する“サービス”には別途上乗せ料金が設定されている。
そのようなサービスが存在するということからも、性売買利用者も性売買業者も、男は不潔であると認識していることがうかがえる。
問題は、その不潔さの認識が「恥」につながらないことだ(問題点はもちろん恥だけではないが、今回はこの点に絞る)。
羞恥心は、他人の存在によってはじめて作動する。
しかし男達にとって、女性の視線は自分を評価するものになり得ない。
それはそうだろう。
彼らにとって性売買に従事する女性は性奴隷で、自分は王様なのだから。彼らにとって、性売買従事女性は、同等の人間ではないのだ。
下位の者にいくら不潔な裸を晒したところで、痛くもかゆくもないのだろう。
その証拠に、彼らは自らの排泄器官を素手で洗わせながら、同時に性的快感を感じることさえできるのだ。
見られる側の女/見る側の男
女性は幼いうちから「見られる・評価される・選ばれる存在」として社会化される。清潔であること、他者に嫌悪や脅威を与えないこと、“適切に”着飾ることなどを、身につけることが当然とされる。
女性の身体は、常に誰かのまなざしの先にあり、評価対象として扱われる。身だしなみだけでなく、覆しようのない身体的特徴まで、評価の俎上にあげられる。
自尊心への脅威や恥が、常に身近にあるのだ。
一方、男は「見る・評価する・選ぶ存在」として社会化される。
一定の清潔さは身につけさせられるが、その社会的要求は女性に対するものほど強くないため、自身の不潔さに鈍感でいることが可能となる。男の身体は女性の身体ほど明確な評価対象とは見なされず、ゆえに男は女性が日夜感じているような自尊心への脅威も、社会的リスクも、恥も、感じずにすむのだ。
この違いは、性売買の空間において最大化される。
「清潔に配慮してほしい」と提案されることは男にとって寝耳に水であり、そのようなことを指摘してきた相手が格下の存在となれば、困惑は容易く怒りに転化するだろう。
性売買は女性の客体化を徹底する
男は、金を払った瞬間に女性を見下すのではない。
女性を見下しているからこそ、平然と金で買うことができるのだ。
金を払って買った女性と密室でふたりきりになり、周囲の視線が消えると、男は女性に“本来の役割”を果たさせようとする。
男のまなざしを受け入れ、男をケアし、男のために存在する、性的オブジェクトとしての役割だ。
その本来の役割において女性は、男に向かって「歯をみがけ」などとは、死んでも言ってはいけない。
これは個人の嗜好の問題ではなく、女男の間にある階級差と、その階級規範を下敷きに作り上げられた厳格な脚本だ。
性売買の現場は、使役すること・されることが明確になった場だからこそ、女性が男を拒否することは、どんな形にせよ、役割からの致命的逸脱であり、重大な違反行為として非難の対象となるのだ。
性売買において女性の拒否権(すなわち基本的人権)は、制度的に著しく弱体化させられている。
性売買は、女性を男のための性的オブジェクト化する構造であり、巨大な川の流れのように、その価値観を社会全体へと流し込んでいる。
不潔さは怠慢ではなく支配の演出
性売買では、男達がその不潔さを女性に押しつけることが常態化している。
彼らは単に不潔さを嫌悪されただけなら不満を抱く程度だが、“ケアを拒否される”と怒りを覚える。
不潔さに対する女性の嫌悪ではなく、役割からの逸脱に対して腹を立てるのだ。
彼らはケアを拒否されると、自らの不潔さを棚に上げて、自分を丸ごと否定されたかのようにショックを受け、パニックを起こし、被害者ぶって怒りを表明する。
男達の行動には、次のような暗黙の前提がある。
『男には、自分の不潔さによって発生する危険を、女に押しつける権利がある』
それは明文化されているわけではない。
しかし、そうとでも考えねば、つじつまがあわない。
わたしは性売買の現場で、くり返し男達から言われてきたのだ。
「これくらいで妊娠なんかしないよね?」
「これくらいで病気になんてならないよね?」
「これくらいの出血、大したことないよね?」
「キミは性病なんて持ってないよね?」
彼らは自らの行いが危険かもしれないという予感を、うっすらとは持っている。
しかし、その危険に対して正しく対処することはまずない。
乾いた性器がすり切れて出血するのも、性感染症によってさまざまな負担を被るのも、望まぬ妊娠の恐怖に怯えるのも、自分ではない。目の前の風俗嬢だからだ。
男は密室の中で女性からのケアを堪能したあとは、店を出てどこへなりと立ち去ることができる。不潔さで女性を汚染した責任も、女性にけがをさせた責任も、“うっかり性器を挿入してしまった”責任さえも、男はとる必要がない。
それらはサービス中のちょっとしたトラブルでしかなく、トラブルに際して「大丈夫ですよ」と笑顔でお客様を安心させるのが、ケア役たる女性の役目とされているからだ。
見る側であり、ケアを受ける側であり、女性を使役する側である限り、男は自らの身体衛生に無頓着でいられる。
『なぜ男達は、清潔に配慮してほしいという要望に対して、不満や怒りで反応するのか?』
その答えは、不潔さを女性にケアさせることこそが、男としての階級の誇示であり、自らの支配を確認する作業だからだ。
責任を正しい持ち主に返すために
性売買が作り出す被害は、個別の性的搾取や性暴力だけにとどまらない。
性売買は、女性を「ケアする側」へと固定し続ける。同じく、男を「ケアされる側」という階級に固定し、そのケアを女性へと押しつけ続ける。
性売買の現場で発揮される男の不潔さの押しつけや暴力性は、性売買をした瞬間に生まれるのではない。
従事女性が男を暴力的にするのではなく、性売買というシステムが“男の暴力と支配を発揮してよい場である”と社会的・文化的に設定されているのであり、その責任が女性に押しつけられているのだ。
女性がどれほど衛生対策を徹底しようとも、男の無責任と暴力を容認する構造を下支えするだけであり、安全の保障には決してつながらない。
そして性売買で発生したすべての不都合や不利益の責任もまた、“風俗嬢の自己責任”として女性側に押しつけられている。
性を売る女は汚らわしいとされて社会的スティグマを負わされる一方、性を買う男はコンビニでコーヒーを購入する程度の存在として透明化され続ける。彼らは不潔と危険の責任をすべて女性に押しつけ、無責任に存在し続けるのだ。
いい加減、この構造が異常であることを認め、真正面から書き換える時ではないか。
実際に汚れているのは誰だ?
“普通の仕事”として認めることで性売買が安全になる、という主張も存在する。
しかし、性売買で売られているのは「社会的な階級に従い、女性が生身の身体で男をケアする」という構造そのものだ。
その構造がある限り、どんな安全対策も衛生的配慮も表面的なものに過ぎない。
誰の監視もないソープランドの個室で、ラブホテルの密室の中で、客の自宅で、男達は安全対策も衛生的配慮もかなぐり捨て、自分の欲望を最優先に行動する。
性売買を普通の仕事と認めただけでその行動が改まる保障など、どこにもない。
性売買において女性が被る被害は、性売買を公的職業として認めることでは決して解消されない。
性売買の存在そのものが、男が女性を性的に使役することを肯定しており、その欲望にお墨つきを与えているからだ。
女性を性的モノ化するシステムを公的職業として認めることが、一体どうして女性の人権を向上させることにつながるというのだろう?
風俗嬢や性的経験のある女性を「汚れた女」「汚れた存在」として貶める文化は古今東西にある。
性暴力被害に遭った女性さえも「汚された」というレッテルを貼られ、その被害の責任を負わされてしまう。
しかし、実際に汚れているのは誰だ?
女性に汚れを、不潔さの責任を押しつけてきたのは、一体何者だろう?
女性が背負わされてきた“穢れ”を、今こそ正しい持ち主に返す時だ。
わたし達は、この責任を正しい持ち主に返さねばならない。
その暴力の主体、その痛みと苦しみの根源、病と傷と死の原因が、一体どこにあるのかを、あらためて明らかにしなければならない。
それを正しい持ち主に返し、濡れ衣を着せられ不潔さと危険のケアを押しつけられてきた無数の女性達の名誉を、回復しなければならない。
女性が、不潔な王様にかしずいて歯みがきの世話をしなければならない社会を、いい加減終わらせるべきだ。














