松も取れたばかりの1月9日、芸能関連会社役員の男が、不同意性交および児童買春・児童ポルノ禁止法違反で逮捕された。
15歳の少女に金を渡したうえで性的虐待を加え、その様子を撮影したものを販売したとのこと。
男は出演契約の書面などを渡さずにAVを制作したことで、AV出演被害防止・救済法違反の疑いでも逮捕された。
いわく「少女を18歳だと思っていた」という。
報道を見ていると、一部では男の行為を「乱暴」「性的暴力」と表現しているものも見られたが、多くのメディアが「わいせつな行為」「みだらな行為」として報道していた。
「わいせつ」「みだら」という表現は頻繁に使われるが、実際の行為が内包する破壊的な暴力性は伝わりづらい。どちらかといえば、男の性的興奮を喚起するエロティックな印象の言葉として認識されているといえるだろう。
日本社会は、男のためのポルノ表現があふれかえっている。
それだけでなく、性的な意味を持たない言葉にポルノ的な文脈の含みを持たせて汚染することも、ほとんど常態化している。
「わいせつ」「みだら」という法的に使用される語彙にさえ、男の性的興奮を喚起するイメージが拭いがたくへばりついていることは、否定しようがない事実だ。
男達は、自分がポルノを愛してやまず「わいせつ」で「みだら」なことに性的興奮をおぼえるのだから女だって同様だろう、と信じて疑わない。
「女だってイイ思いをしたはずだ」という気持ちがあるからこそ、性犯罪被害の報道に対して、ハニトラだ、冤罪だ、そんな大事にする必要はない、と喚きたてることをやめられないのだ。
ポルノと性売買に依存する男達の多くは、性犯罪、性暴力、性的搾取、性的虐待という言葉が使われることを、ひどく嫌がる。
せっかく「わいせつ」や「みだら」といった語彙でスケベ気分に浸っているのに、犯罪だの暴力だのと言われたら、性的興奮が萎えてしまうからだ。
彼らは、自分達が味わっているものの本質が暴力であると受け入れることができない。もしくは、暴力だと分かったうえで、それのなにが悪いのか?と開き直っている。
なぜなら「女だって、自分達同様にイイ思いをしているはず」だから。
言葉や概念の汚染という点でいえば、次の点も見逃すことはできない。
芸能関連会社の役員が逮捕された事件では、各所でくり返し「出演契約の書面などを渡さずにAVを制作したことで、AV出演被害防止・救済法違反の疑いでも逮捕された」と報じられた。
この部分を無批判に垂れ流しているメディアは、よくよく考えてほしい。
あなた方の報道の仕方は「契約書さえ交付していれば、AV出演被害防止・救済法違反はギリ回避できたのにね」と伝えているのだ。
前述した通り、逮捕された男は「少女を18歳だと思っていた」という見苦しい言い訳を述べている。
こういった性犯罪者の弁解は、ニュースでたびたび流れてくる。
たびたび流れてくるということは、多くの男が、この言い訳が、自分の立場を有利にするのに効果を発揮するだろうと、期待しているということだ。
性犯罪者は「性欲を抑えきれなかった」とか「酔っていて覚えていない」という言い訳もよく使う。
どうしてそんな馬鹿げた言い訳が頻出するかといえば、そう言っておきさえすれば「悪意はなかった」「不幸な事故」として、加害責任を薄めてもらえる余地が生まれるからだ。
これが殺人事件や交通事故であればどうか?
「ひとを刺してみたいという欲求を抑えきれなかった」「酒に酔って運転してたから覚えてない」という言い訳は、受け入れられないどころか、加害責任の所在をより明確にする証言として扱われるだろう。
「出演契約の書面を渡さなかった」という一文に戻ろう。
この文言がくり返し報道に出てくるのは、AV出演被害防止・救済法に違反していた事実があるからだが、なんの注釈も批判もなく書かれるこの文言には違和感と嫌悪感を抱かずにはいられない。
なぜなら、ポルノ性売買自由国家とでもいうべき日本では、この一文が事件の本質を軽々とすり替えてしまうからだ。
果たしてこの事件は、契約書を交わしていないことが問題だったのか?
そんなわけがない。
問題なのは、男が15歳の少女を性的に虐待したことであり、その様子を撮影・販売したということだ。
それにもかかわらず「出演」「契約」「書面」などといった言葉が並ぶことで、あたかもこの事件が「AV制作における手続きの失敗」であるかのように見えてしまう。
性的虐待と性的搾取を、単なる手続きのミスに矮小化させる印象操作だ。
第一、15歳に対しては、そもそもAV出演契約など成立し得ない。
だからこそ逮捕された男は姑息にも「相手が18歳という認識だった」などと弁解しているのだろう。
こういった注釈がないまま「契約書を渡さなかったことでも逮捕されました」などと報道することは、性犯罪者の弁解が受け入れられる社会的素地を作ることに寄与している。
「相手を18歳だと思ってたんでしょ?じゃあ、書面さえ整ってればどうとでもなったのにねえ。失敗したね、ドンマイ」
そう言って性犯罪者の肩をポンと叩く日本社会の男達の団結が、目に浮かぶようだ。
報道関係者のみならず多くの男達の中に、このような性犯罪加害者への同情心があるからこそ「わいせつ」や「みだら」を暴力や搾取扱いするのは過剰で言い過ぎだという認識が蔓延り、同じような事件と同じような弁解がくり返される。
性犯罪の報道が流れるたびにうんざりするが、性犯罪事件が報道に乗るようになった現実には感謝しなければなならない。
かつての性犯罪は、報道さえされないものが今以上に膨大にあったのだから。
しかし、その報道のあり方、使われる言葉や概念は、今もなお「性欲を抑えられなかった」と言い訳する性犯罪者に寄り添う形になっている。
この事件は、異常な性癖を持ったひとりのペドフィリア男による例外的な犯罪ではない。
「相手が18歳だと思っていたし、本人から撮影の許可はとっていた」という弁解が通用するかもしれないと期待される社会で、起こるべくして起きた事件だ。
このコラムで再三お伝えしているが「性は金で買える」という社会規範は、性売買の現場だけでひそかに運用されるものではない。
その規範は家庭、学校、職場、街角、あらゆる場所で効力を発揮する。
性を「買うことができるモノ」として扱うことを許容する限り、性暴力も性的搾取も、単に取り扱いミスや手続きミスが露呈しただけのこととされてしまう。
女性の人権は後退し、性にまつわる身体の脆弱性やプライバシーは、エンタメ市場価値やポルノ需要に劣後し続ける。
未成年への性的虐待でさえ、暗に「手続きの不備」として語ることを許してしまうだろう。
性犯罪を、手続きの不備にすり替える言葉を使い続ける限り、性暴力はいつまでも「単なる不幸な事故」扱いされ続ける。
性犯罪者の「性欲に負けたんです(ボクは悪くないんです)」という言い訳を額面通り報道する社会から、いい加減脱却すべきだ。














