私はまだ笑えない笑いについて考えている。その中で松本人志、彼の名前が絆であり装置のようだとも思った。なぜだろう。
天才と言われているのに。
前回のコラムでも紹介したアンドレア・ドウォーキン「ポルノグラフィ」は男の文学にも深く突き刺している。第3章サド侯爵ではドナティアン=アルフォン=フランソワ・ド・サドについて書かれている。 サディズムという言葉の語原となっていることでも有名な世界最大のポルノ作家であるサド。彼に関してドウォーキンはこう述べている。
サドの重要性は、結局のところ、反体制者や社会の逸脱者としてのものではなく、通常人(エヴリマン)としての重要性である。
現在でもサドの文学を天才とする文章が散見される。しかしドウォーキンは彼を通常人(エヴリマン)と述べる。では天才とはなんなのだろうか。
一般的には秀才、なにかを成し遂げた人間に送られる言葉である。
私は本当に天才とされるものほど「天才」という言葉さえ使われず、名前は知らなくともこのことは知っている。という感覚として日常にとけ込んでいることが多いと思う。
そして松本人志について調べていくと「天才」との賞賛がところどころにみられる。彼は笑いの他に、さまざまな言語を日常に定着させたが、ドMやドSなども彼によりバライティーで使われやすい言葉として流通し、消費可能な言語へ落とし込まれた。
サド侯爵と松本人志、この二人の生み出す「天才」という言語はなんだろうか。時代も、表現方法も異なるが、二人は同じ構造の中にいる。現在も彼らに発せられる天才という賞賛は、純粋な評価以上の文脈で誰かの痛みや苦しみを隠し、軽快に使われてはいないだろうか。
ドウォーキンは”通常人”(エヴリマン)についてこのように述べている。
サドの作品の文化的力としてめざましく持続性を保っているのは、彼が作品と人生の両方で、女性に対する憎悪に満ちた性的暴力を訴えたにもかかわらず、ではなく、まさにそのような性的暴力を訴えたからこそ現出した現状なのである。サドの作品は、男たちの共通の価値と欲望を具現している。(196p/15行引用)
人は「天才」を使うとき、こんな使い方をしないだろうか?
”かつての松本人志には及ばないが・・・”
この二人の共通点は女性差別に普遍性があることだ。
天才という言葉である種の上限がつくられたかのように錯覚する。女性差別の最高峰があり、これ以上の批評はしなくて良いと決まっている。時代とともに変化はしている、古くなる。新しい価値観はできる。しかし基準として普遍とするために天才を残しておくことが必要となっている。
天才を使った女性差別の普遍性は何をもたらすのか。それはある程度の男たちの平均点が取れるようにし、評価し合う基準にするためだ。これらの評価を痛みなく受け取れるようにしている。その痛み、代償は女性が犠牲となるシステムである。無知な女性という記号化した女性に常識を問うことで笑いを誘う。女の許容以上の痛みや苦しみを嘆美、エロチズムと称する。そして天才という言葉で男たちは基準を問わせない、不可侵の領域をつくりだす。批評や責任、女性の不快からも免責される。そのため女性がもしも、天才への違和感を発すればあの天才がわからないなんて。と一言で口を塞ぐ。説明をも不要にする。
また、天才というお墨付きと人物名がセットでないとならない理由もある。それは前回述べた男の絆と同様であるが作用がまた異なる。
上記で私が述べた天才については日常にとけ込んでいる。しかし、この天才は日常にとけ込むには不要な部分がある。だって、女性差別なのだから。しかし男たちは天才と言語を使って無理にでも基準をつくりたい。特別でないものを特別にする意味とは、社会の標準として男の痛みが少なく女性の犠牲を不可視化したい。そしていまもそれを抱きしめたままでいたい男の多いこと・・・
こうして男の歴史はさらに重厚になっていく。歴史の遺産である女性差別の言語レパートリーも流行り廃りはあるが、増え続けていく。天才は普遍として基準として輝かしく残し続けていく。
しかし女の歴史は、どうだろうか。
女の歴史は男にとって不都合な場合に削り取られていく。女の語りたかった核心部分さえ、削ればいいのだ。なぜそれでいいのか、核心までの課程の意味をわからなくさせれば論点がずらされる、あとは歴史の遺産である言語レパートリーで女性を定義付ければいい。
女性に気づかせないことが目的であり、男の歴史には大切なことなのだ。
アンドレア・ドウォーキンの「ポルノグラフィ」も現在では絶版されている。女がもつ言葉をどうしても聞きたいとき私たちは掘り起こす作業から強いられている。泥だらけの手で、疲れ果てても私はどうしてもこの言葉たちにたどり着きたい、そして現在生きている女性たちの言葉も大切にしてきたい。















