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【新連載】生活の途中で。Vol.1 松本人志の笑いを見続けたい男たちがもつ7つの権力〜アンドレア・ドォーキン『ポルノグラフィ』から

灯小2026.02.01

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 私は笑えない笑いに出会ったとき、何が潜んでいるのだろうと、そんなことをふと考えたことがある。シュールさや滑稽さの裏には、女性蔑視と男のもつ権力が当たり前のように埋め込まれていることが多い。こうした笑いが本気で楽しめるのは結局、男だけなのではないか。
 それを思ったとき、一人の男の名前を思い出さずにはいられなかった。
 
 ダウンタウンはNSC1期生であり、お笑いの上下関係を従来の師弟関係から芸歴と再構築した最初の世代である。彼らの写真はNSCのHPに残されており、秩序を作った存在として記憶され続けている。
新しい秩序は、お笑いのM−1の審査員でもあった松本人志にお笑いの重鎮としての権力を与えた。そして彼の芸風は模倣もしくは参考され、あこがれを抱いた芸人、彼の芸風を賞賛する声が聞かれることからも彼の作り出したお笑いは規範となった。
 
 冒頭の笑えない笑いは女性蔑視と男のもつ権力で成立している。
だから、笑えない笑いをみたとき、背中が少し冷えるような感覚が残る。この感覚を私たちは知っていると思う。
 
 ではそもそも松本人志の笑いとはどのような権力が、何に支えられて生まれているのだろうか。そうした問いは、私の中に淀みのようにあった。ずっと考えていた。笑いはどこか女性が置いていかれている瞬間があると。しかしこれは私の勘違いかもしれない。ただ、私の空気が読めないだけかもしれない。でも本当に、笑えない。

 だからこそ権力は存在するものだという感覚は否定しきれなかった。そのとき、アンドレア・ドウォーキン著『ポルノグラフィ」が私の問いに輪郭を与え、言葉を紡ぐ手がかりを与えてくれた。
 
 アンドレア・ドウォーキンはポルノ、売春の暴力性を表現や個人の自由としてではなく、女性に向けられた暴力であると明確に示した。1970年代初頭に女性に対する暴力に抗い続けてきたアメリカを代表するラディカル・フェミニストである。

ANDREA DWORKIN. SUPPLIED BY (Credit Image: © Globe Photos/ZUMAPRESS.com)

 『ポルノグラフィ』(1981年アメリカで初版・日本語訳は1989年版で青土社から出版された。現在絶版)は、ポルノグラフィがどのように権力性を帯びてきたか、歴史や文学、性というものが時代とともにどう利用されてきたかを紐解いている。この本は、頭が揺さぶられるような鋭い文章が終始続く。楽しい読書ではないがしかし、痛みがあっても読むことを止めるということができない。なぜならこれは過去の話ではなく、今も終わることがない構造を見つめるための本だからだ。 
 
 本書のなかでドォーキンは男の権力を7つに分け分析している。男は、絶対的な自己を所有する権力、肉体的強さをもつ権力、肉体的な権力を行使する支配の権力、名付ける権力、所有する権力、金銭の権力、セックスの権力をもつ。
 これらの権力のなかで、肉体的な権力を行使する支配の権力は、肉体的強さをもつ権力と類似しているようで、その役割は異なる。前者は暴力を試行する前段階を整える権力であり、抑制や服従を生み出す権力とも考えられる。暴力よりもコストと抵抗感が低く、その抑制と服従は社会に当たり前という前提を生み出すことができる。すなわち文学や笑い、文化といった多くの人が共有できるものの中に支配をスパイスのように混ぜ込まれていく。

 そして松本人志のお笑いは「規範」と呼ぶにふさわしく男の持つ7つの権力すべてを網羅しており、男が優位に立つ笑いが根底に含まれているのだ。特に彼の笑いには女性蔑視が含まれており、女性を虐げ、権威的な様子を「ただふざけているだけだと」服従させる権力を笑いに変えているところはバライティー番組ではよく見かける日常的な景色となっていた。
 
 しかしここで疑念が生まれた。みんなは松本人志の何を信奉しているのだろうか、守ろうとしているのだろうか。
 新年に早々テレビでひとりの芸人が松本人志という言葉を出し、それに手を叩きつつ笑う他の芸人たちというカメラワークがあった。どこがおもしろいという点ではないのだ。この言葉自体が男たちの絆となっている。

 ドウォーキンの秀逸である視点は、上記述べた7つの権力がすべての男に普遍的に与えられるという点である。そして、この権力がずっと続く理由はなんだろうと考えた時に、男たちが無意識に、しかし確実に権力を保持するために補い合っている。時にはそれが絆とよばれる。そしてそれは機械的ではなく感情と構造が含まれている。
 彼ら、松本の笑いをもう一度みたいのはそれらで笑っていた昔の自分を否定したくない男の欲望、今まで日常の景色だった女性蔑視の笑いが「女性の性加害ごとき」で揺らぐ。自分が笑っていたものを否定されたくないという存在の揺らぎから生まれている。
また、彼の作った笑いでしか芸風を模倣出来ない芸人にとっては生存をかけるほどの損失にもなる可能性がある。

 つまるところ、彼の笑いの否定とは一つに女性を差別していた笑いであることを認めざるを得なくなる。松本人志の笑いを見つめ続けたい彼らは本当は過去の自分が間違ってはいなかったと証明がしたい。笑っていた自分たちのプライドを守りたい。今も同様に笑える自分でありたい。ただの一人の男が祭り上げられている図が完成し、配信サービスで芸能界復帰し50万人以上の登録者が彼の笑いを、過去を現在まで維持しようとしている。
 
 これを考えると本当におもしろい笑いとは千差万別である、という陳腐な言葉で片づけることは私は物事、特に女性への矮小に繋がると思う。
 何がおもしろくて笑ってしまうのか、その笑いは何を笑っているのか。今一度考えることが必要なのではないか。そう感じざるを得ない。

 

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灯小

灯小(とうこ)

医療現場で働いていました。蛹の中にいる心地で書いています。

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