日差しが暖かくなり、春の訪れを感じる機会が増えていく中、世界情勢に目を向けると沈んだ気持ちになる。20世紀は戦争の世紀だった、と語られてきたが、21世紀もやはり戦争の世紀なのではないか。20世紀前半に世界大戦を2度も経験した人類は、それでも戦争に懲りる事はないらしい。
世界との距離は、私が子どもだった頃よりもずっと近くなっているはずだ。国際便の発着数も増えているし、ネットで世界の裏側の人とリアルタイムでやり取りもできる。それにもかかわらず、私たちの日常はそういった世界情勢から切り離されているようにも感じる。自分から主体的に情報を得ようとしなければ、ガザで起きていることも、イランで起きていることも気にせずに過ごせてしまう。
私が最初に「リアルタイムの戦争」を意識したのは、イラン・イラク戦争だったと思う。当時、テレビのニュース番組には、毎日、軍事評論家が登場して解説をしていた。テレビに映し出されるスカッドミサイル着弾の映像は、今日のネットに上がるスマホ動画よりも画質も悪かったと思う。正直、何がどうなっているのかはよくわからなかったが、「戦争」というものが「今、この瞬間、起きている」ということを感じて怖かった。
それまでは、子どもだった私にとっては、「戦争」と言えば、1945年に終わった戦争のことであり、東京大空襲や原爆投下のことだったのだ。リアルタイムの戦争に不安を感じつつも、戦争放棄を謳った憲法があるから、日本は戦争をしないんだと思うと少し安心できた。その後も、私は、「日本が戦争する事はない」ということで気持ちを落ち着けていたし、大抵の人はそう思うものだろうと、何の根拠もなく信じたままフワッとしたノンポリの若者に仕上がっていった。
まだ若かった頃、私は「〇〇する女たちの会」のようなものがあまり好きではなかった。なぜ、わざわざ「女たちの」と限定するのだろうと感じていた。わざわざ「女たちの」と銘打って、何かを主張されると、それが「女」のステレオタイプ化に使われそうで嫌だった。そういう括り方は、「女だから」という理由で「子どもを産みたいはず」「ケアが得意なはず」とみなされることと繋がっているように感じてしまったのだと思う。
しかし、今はなぜ「女たちの会」があるのか、わかるように思う。男女問わずに参加できる運動においては、多くの場合、中心やリーダーとなるのは男性で、女性はケア役・補佐役を引き受けさせられてしまう。そのグループの中に女性差別が内包され、女性の受ける被害は「大事な運動のため」になかったことにされる。それが想像できるからこそ、女性たちは「女たちの会」を立ち上げざるを得ないのだろう。
「フェミニスト」が嫌いな若い女性たちというのが、ネットでアンチフェミ男性が言うほどにいるのかどうか分からないが、少なくとも「自分はフェミニストである」とまでは思っていない女性たちは少数派ではないだろう。そういう女性たちは、若かった頃の私のような感覚でいるのではないか、と思うことがある。実は、フェミニストが主張している内容自体にはそれなりに賛同できたり、知らず知らずのうちにフェミニストと同じことを考えていたりすることもあるように見える。
フェミニストが「私たち女性」を主語に語ることで、「巻き込まれたくない」と思う気持ちは想像ができるが、私は、あえて「私たち女性」を主語に語りたい。私たちは多様で、それぞれの経験はそれぞれ固有のもので、一括りにできないことはたくさんあるけれども、それでも、男性であれば決して直面することがない経験を語るとき、それは「私」を超えた「私たち」の経験として共有される必要があるのではないか。「私」個人の経験でなくても、「私たち女性」の経験として、共感力と想像力を働かせて、共に立ち向かうことが、社会を変えることに繋がるのではないか。
女性と共感力を結びつけるのもステレオタイプの強化ではないか?という反発もあるかもしれないので、断っておきたいのだが、私は女性=「共感脳」などとは思っていないし、そう言いたいわけでもない。ただ、男性中心社会の「共感」が馬鹿にされる風潮には異を唱えるべきだと考えている。実際には、男性たちも共感を欲しているであろうことは、「合コンさしすせそ」などにもよく表れているし、男性たちは自認しているほどには論理的でも非感情的でもないことはよくある。
その一方で、男性たちの言動を見ていると、恐ろしく共感力に欠けていることがあるし、特に弱者に対する想像力と共感力を忌避する傾向が非常に強いことも事実と言ってよいと思う。そんな男性たちが決定権を握る社会だからこそ、それに対抗する上で、共感力や想像力というものも大切にした方がいいのではないかと思う。
私たち女性は立場を超えて連帯していく必要がある。その際に、必ずしも手に手をとっての「共感」が必要だとは思わない。もしかすると、各自が別々に地道に異議申し立てを続けていくことの方が重要かもしれない。女性差別に反対していても、高揚感も達成感もなかなか感じる機会がないことを、私たちは知っている。むしろ挫折感や無力感に苛まれる機会の方が多いかもしれない。
それでも、私たち女性のことを語り続けてきた女性たちがこれまでもずっと存在していたし、あなたや私の隣にもそういう女性たちが今もきっといる。女性たちの声がもっと政治に反映されるようになれば、戦争は遠のくだろうか。確信は持てないが、男性たちがもっと共感力と想像力を大事にしてきたならば、世界はもう少し平和だったようにも思う。


マーガレット・アトウッド
『侍女の物語』
斎藤英治訳(ハヤカワepi文庫)
『侍女の物語』はキリスト教原理主義者による政権奪取後のアメリカ(ギレアデ)を舞台とするディストピア小説だ。しかし、「女性同士の分断」と「女性の身体(生殖)の管理」というのは決して架空の話ではないし、キリスト教原理主義者たちによってのみ行われることでもない。自身の名前を奪われて「オブフレッド(フレッドの)」と呼ばれ、男性の所有物にされている主人公の生きる世界は、私たちの日常と地続きだということを、私たちは感覚的にも知っているのではないか。
私たちは「女性である」という理由でまとめて女性差別を受けているにもかかわらず、独身なのか結婚しているのか、子供がいるのかいないのか等のさまざまな「違い」によって分断されてもいる。『侍女の物語』のように明確に制度化されていなくても、女性はカテゴライズされて連帯を阻まれ、男性社会の統治下に置かれる。社会の諸制度や男性中心の社会においては、そういう力学が働いているということ、それを私たちは知っている。
自分の意見を表明するよりも空気を読むことが重視される日本社会で生きる私たちにとって、ギレアデに生きるオブフレッドの息苦しさはある意味では身近なものなのではないだろうか。しかし、この物語にも希望はあるのだから、私たちも諦めずに希望を繋いでいかなければ、と思う。














