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【今日も女が血を流す】 第10回 アイキャッチとして利用される「女」

中谷紅緒2026.02.17

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日本の広告表現には、内容とは無関係に女性像が用いられがちな印象がある。女性をターゲットにする商品の場合はもちろんのこと、主たるターゲットが男性の広告であっても笑顔の女性が使われていることが多い。化粧品に関しては、最近は男性アイドルなどが起用されるケースも増えてきたように思うが、ネットの広告動画を見ていても圧倒的に女性の登場率が高い。広告以外でも若者に政治参加を促す書籍の表紙が女子高校生のイラストだった例もある。日本社会では若い女性がアイキャッチとして使われることがとても多いのだと思う。

ここ10年くらいだろうか、著名人の自死について詳細を報じないようになった。どのように亡くなったかを報じることで同じことをするファンなどが出ないようにという配慮からだと聞いている。報道が人々に与える影響を真摯に受け止めた正しい対応だと思う。しかし、女性が被害に遭う事件に関して、同じくらいに「影響の大きさ」が考えられているだろうか。むしろ、加害男性よりも被害女性にフォーカスするような報じ方になっていることが多く、女性は広告表現と同様に、ニュースにおいてもある種のアイキャッチとして利用されてはいないだろうか。

SNSなどにニュースメディアの公式アカウントが流してくる記事のタイトルや内容抜粋などを眺めていると、加害者か被害者に一人でも女性がいれば「女」という単語が用いられ、「女」が記事への誘導として使われている感じがする。実際に「女」がタイトルに入っている方が閲覧数が伸びるらしい。これは性暴力事件の裁判をわざわざ傍聴に行く男性たちがいるのと似た理由で、性暴力事件が一種のポルノとして消費されているからではないのか。また、それ以外の事件についても、女が被害者であれば「酷い目に遭った女」について知ることで溜飲を下げたい男性というのはいる。そして、日本のAVの暴力性(常識的に考えれば「性的」とは思えない身体的暴力を含むものもある)を考えれば、それもある種のポルノとしての消費なのかもしれない。

逆に、「女」が加害者である場合、今度は「女は被害者ヅラばかりするけれど、加害者になることだってあるんだぞ!」と女性の被害者性を相対化するのに使えると考える男性がいる。女性の被害に関心もなければ、実のところ、男性の被害にも関心がないのに、被害を訴える女性を黙らせたいという情熱だけは持っている男性は存在する。私も、女性の被害についてSNSで投稿したところに、「でも、女性が加害者になる場合もありますよね」とごくごく珍しいケースのWikipedia記事のリンクをリプライされた経験がある。

それを言われたところで、特に性犯罪に関しては、被害者が男性であれ女性であれ、加害者は圧倒的に男性であるという事実は事実のままだし、男性が女性を襲うケースが圧倒的に多いことはデータが示している通りだ。しかし、こういった「女性も加害者になる」という指摘に「はっとさせられ」てしまう人、わざわざ「加害者は男性に限りません」と補足をする必要を感じてしまう人も当然いるだろうし、「女性の被害」の話がしにくくなってしまう人もいると思う。原則に例外をぶつけて議論を混ぜ返すことは、防犯を考える上で役に立たないどころか有害でさえある。

記事の話に戻るが、単に、この社会における「人間」が男性だから、男性以外の属性である「女性」が特殊なものとして名指される“だけ“のことであって、私のような「女をアイキャッチ化している」という考え方は極端で、それこそが被害妄想だと思う人もいるだろう。しかし、本当にそれだけなら、男性4人と女性1人のグループが逮捕されたときに、「○○の女ら逮捕」というタイトルにするだろうか。そして、加害者が男性のみの場合には、逆に被害者を主語にした「女性が〇〇される」のような、加害者を隠した受動表現が用いられるのはなぜなのか。

おそらく、ここ1、2年くらいのことだと思うのだが、こうした報道の偏りを「男消し(構文)」と呼ぶ女性たちが現れた。秀逸な命名だと思う。そう、女性が有徴化されるというよりも、男性が消されていると考える方がしっくりくる。もう少し踏み込んで言うなら、「男性の加害性」がキレイに消されている(ただし、外国籍の男性の場合は「〇〇国籍の男」と国籍と性別が合わせて報じられることが多い)。

「男性の加害性」に向き合いたくない男性は多い。「主語が大きい」「男が全て性犯罪者ではない」「男で一括りにするな」などなど、男性の加害性に言及する女性に突っかかってくる男性を、私たちは数えきれないほど見てきた。しかし、その割には、男性たちは「男性による加害行為」を見逃してきたし、女性の被害を軽く見積もってきた。その「男性の加害性を直視できない態度」と「女をアイキャッチに使う文化」の融合が報道における「男消し(構文)」なのかもしれない。

しかし、報道が消し去ろうとしても、私たちは自らの経験によって、日本の男性たちの加害性を知っているし、その記憶を消すことはできない。さらに言うならば、SNSには「誰もあなたみたいな煩いフェミBBAのことは狙いません」と教えてくれる男性も少なくない。それは「自分の好みに合う若い女性のことは性加害のターゲットに選びます」と言っているのと同じなので、「あ、私はターゲット外なのね、よかった〜」とはならないし、逆に「んまぁ〜、私のことを性的対象と見ないなんて許せないザマス!」ともならないのだが、彼らにはそれが理解できないらしい。男性全般への信頼を毀損しているのは自分たちなのだという自覚を持ってもらいたい。

『君が生きた証』
ウィリアム・H・メイシー監督 2014年

息子を銃乱射事件で亡くし、世捨て人のようになっていた父親(サム)が、息子が残した音楽と向き合いながら喪失を受け入れ、再生していく物語なのだが、最近になって、これはある意味では「有害な男らしさ」を巡る物語でもあるかも…と思うようになった。

Netflixのドラマ、「アドレセンス」のようにストレートにそれをテーマにした映画ではないし、この映画が撮られた当時はまだ「有害な男性性」という概念はさほど一般的でもなかった。だから、それに「ついて」の映画ではないが、それを「巡る」物語とは言えると思う。

私自身はあまりネタバレを気にする方ではないのだが、この映画に関してはあまり事前情報がないまま観た方が良い気がしているので、多くを語れないのだが、俳優たちの抑制の効いた演技も良いし、この映画のために書き下ろされたオリジナル楽曲も耳に心地よい。

最後のライブシーンは、サムが「有害な男らしさ」を手放す(少なくとも手放そうとしている)場面ように私には見える。自分の弱さも受け入れ難い事実も受け入れるためには、「強さ」が必要だが、それは「有害な男らしさ」ではない「強さ」なのだろう。

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