昔からオートロック物件が怖かった。以前の下着泥棒の話でも少し触れているのだが、私は防犯意識が低いまま成人してしまったところがあり、集合住宅の1階は防犯上よろしくない(2階以上に住むべき)とか、女性はオートロック物件に住む方が良いとか、そういった世間一般の常識に疎いままで生きていた時期が長かった。
オートロック物件は、確かに中に入れば安心感はある。しかし、中に悪い奴がいたらどうなるだろうか? ロックがかかってしまった建物の中で、何かが起こって助けを求めても、仮に外側から異変が見えていたとしても、外からは助けに入れないということではないのか? そう考えると、どうにも落ち着かない気持ちになった。規模の大きな集合住宅にもオートロックは多いが、住民全員を把握できるわけでもないし、こちらも他の住人全員から把握されたいわけでもない。そうなると無関係の人間がなんらかの方法で中に潜んでいても見分けられないことになる。
だから、ネット時代になって、世の中の常識に触れた際に、「防犯のためにオートロック」という話には、「なるほど」と思いつつも、いつも「でもなぁ…」とも感じていた。ただ、その危惧をオープンな場では話さないようにしていた。それは、自分では「その手」を思いつかない犯罪予備軍に、オートロック物件の弱点を教えることになるからだ。私が一人で「怖いな」と思っているだけなら、誰の安全を侵害するわけでもない。もちろん、オープンではない場所では不審者をどんな風に警戒しているかを話し合ったこともある。それは有益な情報交換になるからだ。
2025年9月に神戸市のオートロックマンション内で、住人の女性が見知らぬ男性に刺殺される事件が起きた。この事件については、「住人と一緒にオートロック物件に侵入する手口」も詳細に報じられた。その手口を指す「共連れ」という言葉がすでに存在していたということは、過去にも類似の事件は起きてきたということで、おそらくは詳細に報じることでオートロック物件の住人(特に女性たち)に自衛や警戒を促すべきだとの判断があったのではないかと思う。しかし、これは、この報道以前にはその手口を自分では思いつかなかった(成功すると思っていなかった)犯罪予備軍にオートロックをすり抜ける手段を教えてしまうことにもなったのではないかという不安を覚えてしまう。
以前、日本の報道は他国よりも「犯罪手口」を報じすぎるという話を聞いたことがある。他国の報道を詳しく調べたわけではないので断言はできないが、確かに「どのように」犯罪が行われたのかということが比較的詳細に報じられているようには思う。この「共連れ」についても、被害者になりやすい女性たちが知ることで自衛に繋がる効果は無視できないが、「自衛しろ、自衛しろ」と言われ続けて、わざわざ家賃も高めのオートロック物件に住んでその上で「さらに自衛しろ」と言われるのも釈然としないものがある。そもそも女性は言われなくても男性と二人きり、もしくは男性複数と自分一人にならないように気をつけている。その隙を狙ってくる犯罪者を「自衛」だけでなんとかできるなら苦労はない。
警察組織においても、報道機関においても、いまだに男性中心に物事は動いている。「共連れ」などという言葉を知る前から、そのリスクを警戒し、自衛策を講じてきた女性たちがいることを、男性たちは知らない。まったくの善意から「オートロックでも安心できないのか!女性はこういった手口に気をつけて!」と、女性を啓発しようとする男性もいるだろう。そういう男性には、この報道が出るまで、自分がオートロックの弱点について考える必要がなかったのはなぜなのかということを考えてみてほしいし、ただ生活するだけのことにいちいち「自衛」の必要を説かれる側の負担も想像してほしい。
「自衛が周知されることで犯行がしにくくなるだろう」「もともと警戒していたなら、別にさらに自衛を説かれても生活自体はたいして変わらないのではないか」と思う人もいるだろうが、「自衛策」が広く周知されることは、「自衛しなかったこと」が「被害者の落ち度」と見なされることにも容易に繋がってしまう。ただでも自己責任論が蔓延する世の中で、「あれだけ周知されていたのに警戒しないなんて」と被害者バッシングが起きないとは思えない。
しかし、不思議なことに、女性が「女性専用車両」や「女性専用フィットネスジム」を求めたり、「女性だけの街があったらいいのになぁ」と願望を述べたたりしただけで異様に怒り狂う男性が一定数存在する。あれだけ「自衛しろ」と言っておきながら、究極の自衛である「男性がいない空間」を女性たちが求めることは許せないらしい。特に、論理的で解決脳で女性に優しいと自認しているらしき男性にそのタイプが多いように見えるのだが、感情的で共感脳で男性に厳しいらしい私には理解不能である。
私たち女性は、なんだかんだ言っても、安全・安心のために自衛をせざるを得ない。それがどんなに理不尽であるとわかっていても、無防備にはなれない。防犯意識の低かった私は、20代半ばに性被害に遭った。今でも「なぜあの時にああしたのか」「なぜこうしなかったのか」と思い出して後悔をする。自分は悪くないと頭では分かっていても、警戒心の足りなかった自分を呪う気持ちは消えて無くなりはしない。
本当は「女性に自衛を強いている社会」の方こそが、男性たちこそが変わるべきなのに。


『スキャンダル』2019年
ジェイ・ローチ監督
FOXニュースのCEO(当時)による性加害の告発という実話に基づく社会派映画で、キャストが豪華だったこともあり、日本でもかなり話題になったと記憶している。久しぶりに観なおしてみて、男社会における女性同士の連帯の難しさについて、改めて考えてしまう。女性たちはいつも分断されて対立させられる。
しかし、それでいながら、女性たちには男性たちにはない共通の経験もある。それを各自がそれぞれに勇気を持って話すことで開かれる道がある。個人として仲良くならないまま、互いに手を取り合うことも慰めの言葉を掛け合うこともないまま、同じ「敵」を倒すこともできるという事実には勇気づけられる。
性加害はしばしば繰り返される。一人の加害者が生む被害者の数は少なくない。「自分さえ我慢すれば…」と考えてしまう被害者の気持ちも痛いほどわかるが、それは次の被害者を生み出すことに繋がりかねない。加害者を警察に突き出すことができなかった私のせいで誰か他の女性が被害に遭っている可能性はゼロではない。性加害に関連する話題になると、そのことを思わずにいられない。














