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【今日も女が血を流す】 第6回 セックスとジェンダー(上)〜性別二元論はもう古い?〜

中谷紅緒2025.12.16

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ラブピースクラブで連載をさせてもらえることになった時、プロフィールに「フェミニスト」と入れるべきなのか少し迷った。私は「フェミニスト」として何か特別な活動をしているわけでもなく、「フェミニズム」を専門とする学者でもない。女性差別をなくすことに関心があるものの、そのために自分に出来ていることは僅かだという自覚はある。それでも、あえて「フェミニスト」と名乗ろうと思ったのは、どこにも属していない無名の一個人がフェミニストを自称して、「正しいフェミニスト」とは違うことを言っていくことに意味があると思ったからだ。

私が大学生だった2000年前後は、まだ大学においてジェンダー・スタディーズは今ほど主流ではなく、フェミニズム的な言説に触れないままで卒業してしまうことが可能な時代だった。しかし、当時の私は学ぶことにどん欲でなんでも知りたかったので、インカレイベントで知り合った他大学の友だちのゼミに潜り込み、はじめて「大学におけるジェンダー・スタディーズ」と出会った。

そんな調子なので、はじめは他の学生が「バトラーが…」と話していても、バトラーと言えばレット・バトラーしか思いつかないレベルで何も知らなかった。そのゼミの担当教員がジェンダー・スタディーズ入門系の授業も持っていたので、そちらにも参加するよう勧められ、私はついにジュディス・バトラーの「セックスもまたジェンダーである」に衝撃を受けることとなった。

その当時の私の知識は、「性差には、生物学的性差(セックス)と社会的に構築される性差(ジェンダー)がある」というところで止まっていたので、「セックスもまたジェンダーである」という最先端の議論に触れる機会を得たことに、素直にワクワクした。また、性分化疾患の当事者である橋本秀雄氏による『性のグラデーション』を読んで「性別というのはグラデーションなのだ」という考え方にも触れ、深く納得してさえいた。(なお、後に、身体の状態について「性のグラデーション」という表現を使うことは、不正確であり、性分化疾患当事者の方々を傷つけるものであるということを知ったことは申し添えておく。)

しかし、昨今、「身体的な性差はない」「性別二元論は間違いである」と言われるようになって、それはさすがにおかしいと思うようになった。確かに、身体には個々人で様々な差があるし、同性間でも違いはある。同じ「女性」でも身体のあり様は画一的ではない。しかし、それにもかかわらず、「女である」というだけの理由で無個性な「女性」という型に押し込められて、二級市民として扱われるという現実がある。そこには「性別二元論的に構築された女性差別」があり、その構造の分析と解体には性別二元論が必要でさえある。

そして、何よりも有性生殖をする生き物で性別が2つではない生き物はいるのだろうか? 性別二元論否定派には、クマノミの性転換を例に挙げる人が多くいるが、カエルの中にも環境によってメスからオスに変わる種がいるし、コモドオオトカゲはメスしかいない環境だと単性生殖もできるらしい。そういった生き物が存在している事実は事実として、しかし、人間はクマノミでもカエルでもコモドオオトカゲでもないので、それを根拠にされても納得しかねる。人間は魚類でも両生類でも爬虫類でもないので。さらに言うと、ほ乳類の中にはそうした変化が起きる生き物はいないはずだ。

田嶋陽子さんは、男性は女性を穴と袋として搾取してきた、と述べていた。それはどういうことか。男性は女性を性欲解消用の穴として利用し、婚姻制度の中に囲った女性のことは家父長の子を孕む袋として利用してきた、ということだ。なぜ、そんなことが可能だったのかを突き詰めて考えれば、それは女性の身体構造とその妊孕性ゆえである。つまり、女性はその身体ゆえに差別されてきたのだ。

その身体構造と妊孕性が、「女らしさ」という一見もっともらしいジェンダーロール(性役割)を生み出し、それを強化する根拠とされている。本当に身体的性差などないのであれば、ジェンダーロールはどう構築されてきたと言うのだろうか。論理的に考えて、常に参照されてきた「女性差別の根拠」は、女性の身体にある。だからこそ、「身体的性差はある」という事実を確認することは、女性差別をなくすためにも避けて通れない最初の一歩だ。

私は、自分がバトラーの言葉に感銘を受けて視界が広がったと感じた経験があるからこそ、同じようにバトラーの言葉に衝撃を受けて「セックスもまたジェンダーだった」と信じた人たちの気持ちはよく理解しているつもりだ。バトラー的な思考の転換を受け入れられない人たちの方が狭量なのだと思ってしまう理由もわかるつもりだ。しかし、アカデミックな議論を離れて、この身体で生きた経験に耳を傾ければ、やはり生物学的な性差は「ある」と結論せざるを得ない。

小難しい理論書を読んで身体感覚から離れたところで議論をしていると、市井の人々は不勉強で愚かに思えるかもしれない。しかし、日々、その身体を持って生きているからこそ見えていることだってあるはずだ。その経験は論文にはならないし、学術的には評価されないが、その身体感覚の方が学術的な議論よりも正鵠を射ていることだってあるだろう。その事実を認めること、要するに自分たちが間違っていたことを認めることは、そんなに怖いことだろうか。

ここにも「正しいフェミニスト」であり続けることを至上命題にすることの弊害があると思う。間違いに気づいたならば、それを素直に認めて謝って、またやり直せばいい。そして、自分の正しさを証明するために他者を糾弾するような風潮からはもう脱した方がいい。それは誰も救わないし、あなたが間違った時にはあなたの首を締めるから。

 

『ポスト構造主義フェミニズムとは何だったのか』
古川直子
京都大学学術出版会
2025年

日本語文化圏の私たちの日常生活や政治家の言葉の中に、「生物学的性差とされてきたものも社会的に構築されたものである」という考え方が当たり前のように入り込むようになったのは、2010年代になってからではないかと思う。しかし、アカデミックな議論においては、それはもっと早くから始まり、時間をかけて発展し、主流化していった。その流れについて、そして、そのパラダイムの不備や再考が必要な点について、簡潔にまとめられている本がやっと出版された。こういうものが読みたかった!と快哉を叫んだ人も多いのではないかと思う。

バトラーは戦略的に読みにくい文章を書いていると聞いたことがあるが、古川の分析を読むと、改めて「読みにくく書くのは、相手を煙に巻くためでは?」と疑いたくなってしまい、バトラーをそれなりに尊敬していた過去を持つ者としては、詐欺に遭ったような気持ちになる。

権威ある立場の人たちのほとんどが「セックスもまたジェンダーである」を大前提としており、異論は「差別」(良くて「時代遅れ」)と見なされがちな中、このテーマで論文を発表し続けた学者がいることは小さな希望でもある。この希望を未来に繋ぐ学者たちが後に続くことを願っている。

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