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【今日も女が血を流す】 第11回 地に足のついた言葉

中谷紅緒2026.03.03

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ブログ系サイトにもメールアプリにも「AIで書く」モードが当たり前のように実装されるようになった。しかし、だからこそ、自分で考えて自分で書くことで思考を鍛え、言葉を磨くことがますます必要な時代になったように思う。自身の経験や身体感覚を持たないAIの言葉では、私たち女性の経験はきっと取りこぼされてしまう。

これまでの歴史の中で、「歴史」として書き記すべきとされた「経験」は主に男性の経験であり、男性の考えなのだから。AIがどれほど膨大な情報量を処理できたとして、それが男性の経験や思考にばかり依拠しているのであれば、女性にとっては役立たない結果も生む。女性が自らの「地に足のついた」言葉を繋いでいくことの重要性はむしろ高まっていると思う。

私は十数年前から、週に何度かウォーキングやジョギングをするようにしている。始める前は走ることになど全く興味がなくて、楽しそうだと思ったことさえなかったのだが、実際に始めてみると、これが意外と性に合っていた。まず、チームスポーツなどと違って一人でできるということが良い。自分の予定で、自分のペースでできるので気楽だ。走る時間帯も距離も自分のその日の調子で緩く決めればいいし、走ることで「今日は調子がいいな」とか逆に自分の体調も把握しやすくなった気もする。

一時期、登山をしていたこともあり、もともと「自分の足で地面を踏む」感覚が好きだったので、むしろなぜこれまで走ってなかったのか?そっちが不思議なくらいに思うのだが、もしかすると「体育の授業」のせいかもしれない。私は体を動かすこと自体は嫌いじゃなかったが、体育の授業はあまり好きではなかった。特に足が遅いので、陸上競技系は全部嫌いだった。

最近思うことは、体育の授業で「走り方」は教えてくれないということだ。もちろん、身体的条件や才能の差も間違いなくあると思うが、走るときに足や腕をどう使ったらいいのかなどのコツくらいは教えてくれてもよかった気がする。「走るのなんか誰でもできる」という前提で「走り方」を教えることをしないままで、それで「体育」とか名乗るのは図々しくない?体を育んでないじゃん?嘘はよろしくないですな、と言いたい。

先日、ジョギングの際に、通り道にあるタワマンを何気なく見上げて、外壁の汚れなどが目立つようになっていることに気づいた。そうやって意識的に見始めると、さらに気になるのは、そのタワマンには生活感が薄い。この冬は風が強い日も多く、その日も風のせいで日向でもだいぶ寒く感じられたくらいだったので、ベランダに洗濯物を干すのは心配だろうし、そもそもタワマンの住人は乾燥機くらい持っているからベランダに干したりしないのかもしれない。しかし、それにしてもあまりに生活感がなくて、その隣の比較的新しい方のタワマンと比べても「色がない」のだ。

私の住む街に最初のタワマンが建ったのは、おそらくもう20年くらい前のことだろうと思う。問題のタワマンも本来であれば大規模修繕を何度か行っていてもいい物件なのだが、私の知る限り修繕をしていたことはない。今は建築業界も人手不足だというし、タワマンの修繕を請け負える業者が足りていないのではないかと感じさせられる。それなのに、今年に入ってからも近所では新築マンションの建設が続いている。少子化で人口も減少している中、マンションばかり増えて、私が60代半ばになる頃には、あれが全部老朽化し始めてゴーストタウンみたいになる図が浮かんでしまう。普通に怖い。

私は高所恐怖症ぎみなので高層階に住みたいと思えないというのもあるが、タワマンの良さというのがいまいちわからない。特に、あの東日本大震災を経験してしまうと、揺れの大きさへの不安もあるし、エレベーターが止まった時の移動の大変さというのも考えてしまう。高層階は火災などがあった場合でも怖い。

今回の話はあまり「フェミニズム」っぽくない感じがするかもしれないが、これは「身体を持って生きる」という身体性の話で、フェミニズムの話でもある。私は自分がアカデミックな「ジェンダー論」にも触れてきた経験から、身体を離れた抽象化が切り開く地平もあるとは思っているものの、やはり身体を持って生きるからこその苦労や苦悩というのは、抽象的な議論では解決できないという実感が年々強まっている。

私は走る時にベアフットシューズを履いているのだが、靴底があまり厚くないのでどんな地面を踏んでいるのかが足の裏にダイレクトに伝わってくる。そして、自分の足で出せるスピードというのは、景色を眺めたり町の雰囲気を感じたりするのに適している。若干スピリチュアルな言い方をするなら、「身体と地球の対話」に向いているのだ。そして、私の「高いところが怖い」「タワマンは不安」というのは、身体感覚として決して間違っていないように思う。やはり人間は「土から離れては生きられない」(『天空の城ラピュタ』)のではないか?

ネットでの議論には身体がいらない。いや、実際にはPCやスマホの画面を見ている身体があるのだが、それを忘れることができてしまう。それは良い面もあるけれど、昨今のフェミニズムの議論を見ていると、マイナス面の方が大きい気がしてしまう。無限に増殖するセクシュアリティの区分け(名付け)も「女性身体」の軽視も、身体性への感覚が希薄になるネット空間への依存度が上がるにつれて、強化されてきたように思う。

そして、それが一気に加速したのは、2020年ではなかったか。未知のウィルスの世界的蔓延という事態に直面して、多くの場所で人々は、時には強制的に引きこもり生活を送らされることになった。「身体」があるからこそ、私たちはウィルスに感染するのだし、ウィルスに感染しないために身体を感染源から切り離す必要があったのだ。

ネット上では「男女の身体差に言及するのは差別」とまで言われるようになったが、現実には個々人の身体差だけでなく、カテゴリーとしての男女の平均的身体差もある。その当たり前の身体感覚を取り戻すためにも、文字通り「地に足をつけて」周囲の社会を見ることと、その経験と切り離せない自分の言葉を紡ぐことが必要なのではないか。

なにを今さら…な一冊だが、日本でも新作映画(エメラルド・フェネル監督)が公開中なのでパラパラと読み返している。初めて読んだのは高校生の頃で、「感想を述べるのが難しい本だな」という感想を持った。それ以来、何度も読んでいるが、やはり鴻巣友季子さんの訳が一番しっくりくるように思う。

“究極の愛の物語”などと言われているのを見て、素敵なラブファンタジーを想像していると、登場人物全員にイラつかされるので、これにインスパイアされてWuthering Heightsという曲を書いたケイト・ブッシュはすごい。

主人公にも他のキャラにもまったく共感できそうにないのに、どうにも「目が離せない」ところが『嵐が丘』の魅力だと思う。小説なのに「目が離せない」と評したくなるところが、この作品がこれまでにも繰り返し映像化されてきた理由かもしれない。

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