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モテ実践録(27)『失われたモテを求めて』

黒川 アンネ2022.06.17

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突然ですがお知らせ。2019年に始まった本連載ですが、6月末に草思社さんから『失われたモテを求めて』というタイトルの単行本として刊行されることになりました。単行本は書き直した部分なども多いので、ぜひお手にとっていただければ幸いです。カバーは、連載『まじめな会社員』(講談社)で、現代の30代女性のリアルすぎて心が痛くなるドキュメントを成し遂げた漫画家で友人の冬野梅子さんのかわいいイラストがたくさん載っていて(装丁はあの名久井直子大先生です、おそれおおい!)、本棚に置いているだけでも楽しい感じの一冊です。ぜひ  #失モテ  のハッシュタグで感想なども教えてくださいませ。著者名は、平仮名一字のままだと支障がありそうなので、黒川アンネとつけました。自分でも恥ずかしくて今のところ絶対やすやすと名乗れないのですが、由来はあとがきに書いたので読んでください。

3年以上も、そのたびにワインなどを摂取して勢いをつけて書きためてきたものをまとめて読み直すと、「……この、デートしたYさんって誰だ?」などと思い出せないことも多々あり、一方で校正がつらいほど読み返したくないページもたくさんあった。何度も原稿を読み直すうちに、私は、自分が求めてきた「モテ」は、いつの頃からか、具体的な(現時点でヘテロの私の場合は)男性からの人気を指すのではなく、自分が当然に愛される可能性のある存在なのだと自ら信じられる状態のことを指すようになっていったことに気づいた。その状態であることは、具体的に誰かから愛されることを必要条件としない。

何を言われたか詳述はしないし、忘れたいことをあえて無理に思い出そうともしないのだが、物心ついた頃から周囲に言われたことが次から次に沈殿して、私は自分が「女性」とみなされる側に入っていないことを感じ取り、そこに入りたい、他の人のようになりたい、人間になりたいと、たぶん常に願ってきたからかもしれない。30も半ばにして最近気がついたことだが、私は自分から本当にほしいしたいと思うことよりも、他人には普通に与えられている(ように見える)ことやものが、自分には与えられないときの悲嘆や執着が異常に大きい。何の苦労もないように見える他の人(そんな人は存在しないのだが)をうらやんでは、たぶんそこには憎みのような感情もあった。でも、そんな憎しみは抱く必要なかったのだ。

以前にフェミニズム飲み会を企画したときに、そこに来た年齢もさまざまな人たちが、みんな一致して2018年に「自分はフェミニストかもしれない/フェミニストだ」と思うようになったというのが印象的だった。やはり大きいきっかけは医科大学の女性受験生の減点や伊藤詩織さんの #MeTooであったし、翌年に始まったフラワーデモも「フェミニズム」という言葉が自分のものとなる大きな出来事だった。

私にとってフェミニズムというのは、女性の権利向上!と言うだけのものではなくて、性別による差別があることを認識し、性別によって一方が優遇され一方が冷遇されることはやっぱりおかしいのだと口に出すこととして始まった。フェミニズムに接することによって、私がそれまでに抱えてきた生きづらさやさまざまな局面でのつらい思いは、私が私であることが必ずしも原因ではなく、自分の世界の中だけで自分を責める必要はないのだと悟った。そうして、自分もこの世界に含まれていていいんだと思えるようになったのだと思う。最近ではアメリカの俳優が「フェミニストでないなら、あなたはセクシスト」という発言をしているそうだが、性別によって与えられる機会が絶望的に偏っていることにおかしいと思うのなら、きっとみんなフェミニストだ。

今回は編集者さんとのやりとりで、本のカバーや帯にフェミニズムという言葉を使うことにはならなかったのだけれど、内容としては、フェミニズムや周りのフェミニスト(もちろんこの連載の場をくださった北原みのりさんや連載の編集をしてくださった小田明美さんも含む)に支えられ、さまざまな影響を受けながら、自分は生きていてよいということを理解した3年をつづったものであるし、フェミニストとしてモテたいということを真剣に考えた日々の記録だと思う。ぜひまとめて本で読んでください。

その上で、次から書くことを、私は今回の本が出る前に絶対書いておきたいと2ヶ月間ほど考えてきたが、やっぱり書くことがつらくて逃げてばかりいた。ただもう書誌情報も出てしまって、たぶん私にはこれを書く責任があるので、逃げずに書いてみようと思う。

大学にいた頃、私には親しい男性の友人が何人かいた。そのうちの、年下の一人とは、社会人になりたての頃も何度か互いの家で飲み明かすほどだったが、次第に仕事が忙しくなり会うことも減っていった。その友人と春ごろ久々に再会した際に、彼は、余談のような感じで笑いながら「◯◯さん(私)に触られたことがある」と話していた。私は今や、性暴力は絶対に許さないと、加害の側に激しい批判を浴びせているのに、いざ自分がそれを指摘されたときに「嘘」と言ってしまったり、認めたくない気持ちがバーっと湧き上がるのを感じたりした。彼は「そんな、気にしてないですよ」と言っていたけれど、まだ自分の中で何が悪いのかわかっていなかった頃、誰かを傷つける可能性があるとわかっていなかった頃、自分には与えられないとうつうつとしていた頃、他の人にだって思い出せない何かをして、その人が何年か後、あるいは近い将来に私からの被害を告発する可能性は十分にあると思うのだ。そのときから、時限爆弾を抱えているような気持ちがずっと続いている。

最近、私は演劇関係の知人が SNS上で#MeToo というハッシュタグで被害を告発されているのを見て、その知人は比較的しっかりした考えをする人だったので「まさか」と思ったが、とっさに「まさか」と思ってしまった自分にショックを受けて反省をした。普段、性被害を疑う人に対して怒っているのに、自分の比較的身近な人にはそう思ってしまう。それに彼の仕事風景を常に見ているわけじゃないので、何が起こったのか私に判断できるわけないのだ。結局知人は、第三者をまじえた検証を行い、弁護士とハラスメント防止のためのガイドラインを作成することになったとネット上で報告していた。

このことについて、友人に素直に自分の戸惑いについて話すと、その人が言うのは、こうした動きを見て、演劇界の人はだいたいひとごとなんじゃなく、次に告発されるのは自分じゃないかと思っているのではないかということだった。そのくらい、たとえばここ10年で許容されるラインが変わってきているのは、本来は喜ぶべきことだ。でも、10年前の自分の行動や態度を今から修正できるわけじゃない。

今のところ私は、これからの自分の行動を変えていくしかないというふうに思っている。常に自分の中のガイドラインを更新して、「あなたのそのやり方・行動はおかしい」と、わざわざ注意してくれる周囲の人を大事にしなきゃいけない。

加害の側を引き受けるというのは、本当につらいことだ。でも、私はそれをずっと背負っていかなくちゃいけない。

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