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「無縁でも血縁でもなく」

茶屋ひろし2010.04.16

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京都にいた頃、ふいに飲食店で働きたいと思って、飛び込みでいろんな店を訪ねたことがありました。時々友達と食事をしに行っていたような店です。どの店も、求人募集の貼り紙をしているわけではありませんでした。常連でもなく、店の人と話したこともない私に、とつぜん求人を聞かれて店の人も驚いて断ります。何軒かの店には、「今回はご縁がなかったということで」と、やんわりと断られました。

京風なのかどうかはわかりませんが、上手い言い方だな、と思いました。角を立てずに、(お客さんとして)またおこしやす、の意味も入っているような感じでした。

断られながら鴨川を下って、木屋町に辿り着き、今度は行ったこともないバーの扉を開け始めました。ほとんどゲリラです。それでも一杯しか飲まない私にマスターたちは、断りながらも知り合いの店を紹介してくれました。そして三軒目のマスターが面白がってくれて雇ってくれることになったのですが、その後仕事を覚えていくうちに、水商売の世界でとつぜん知らない人を雇うという話はない、ということも知りました。誰かの紹介を受けるとか、客として来ていた子に声をかけるとか、そういう雇い方です。その常識が身についた頃にはすでに、過去の自分のことを思って、無謀だったわ、と他人事の
ようでした。
私を雇ってくれたマスターが、「これも何かの縁だから」と思っていたかどうかはわかりません。縁があった、というより、押しかけて縁をつくってしまったような気がします。

かといって、私がお店をやっていて、見知らぬ人が飛び込みでやって来たら、「ご縁がなかったということで」と断ってしまいそうです。

知らない人と関係を持つのは、縁というより、「組み合わせの妙」というような作用の方が大きいのかもしれません。
というようなことを考えていたのは、NHKの、「無縁死」か「無縁社会」か、そういう言葉がタイトルのドキュメントを見たせいでした。

私が見たのは、一度そのテーマで放映したところ、反響が大きかったので、もう一度つくりました、という続編のようなものでした。

「無縁死」という言葉は、東京で誰にも知られずに死んでいく、というような意味合いで使われていました。
最初の放送では、血縁の家族がいない、いても会えない状況にある、という人たちを中心に取り上げたようですが、その反響として今度は、血縁の家族がいる、会おうと思えば会えるけれど会わないことを選んでいて、このまま行くと自分は「無縁死」に至る気がする、という30代以降の独身の男女を取り上げていました。
なぜか、結婚と家庭を持つことをあきらめざるを得ない、という絶望を感じている40代のフリーライターの女性、北海道からやってきてプログラマーとしてバリバリ働いていたけど、鬱病になり退職して三年ほど引きこもりの状態が続いている30代の男性。

その二人の取り上げられ方は、すさまじく孤独で淋しい様子でした。二人とも、なんでそこまで話す人がいないの? という生活で、番組は二人が「twitter」を手放さないことを強調します。手が空いたらとにかく「つぶやく」二人です(英和辞書を引くと、鳥のさえずり、という、もう少し軽やかな意味が・・)。

仕事がない男性は公園のベンチでひとり、「腹が減ったな・・」「今日はやっぱりいつもの牛丼かな・・」とつぶやいていきます。そして牛丼を食べて、部屋に戻ります。部屋に帰ったらまずパソコンを開いて、あとはネットサーフィンとゲームをし続けます。

「人に会うのが面倒くさいということもあって、それで部屋に人が来ることもないと、身なりも部屋の中もかまわなくなってきて、そうするとますます人と会う気がなくなってきて・・」と、そのエンドレスを語ります。

そういうの、わかるわー、と思って見ていたら、その部屋は私の部屋によく似ていて、ハッとしました。私には、よくある日常の一コマのような気もしました。

けれど、番組の作り方はなんだか、東京には救いようのない人たちがいることにして、それを救いようのない感じで描いていて、息がつまりました。そうなの? もうちょっと、それでもなんとかなるんじゃないの、という視点はないの? となんだか早口で悲痛な気持ちになって、その反動からか、二丁目に飲みに来るゲイたち(私も含めて)は幸せなのね、と思ってしまいました(後から思うと、幸か不幸か、でもないような気がしますが)。

フリーライターの女性は、仕事を続けながら結婚をして家庭を持つというスタンダードに乗れていない自分(画面では「それが叶わない社会」)を終始責めているような苦悩を見せていて、無職の男性は、難しい資格もとっていよいよこれから、という時に病気になった自分を受け止めきれずにいて、かといって、このままじゃ地元にも帰れない(親に会わす顔がない)という行き場のなさを孤独に置き換えているように見えました。

その点ゲイにはそのスタンダードがないし、むしろ、性的に自由になれない地元から出たい人が多いのではないか、と思いました。ゲイバーで「twitter」をしている人をよく見かけますが(なぜか50代以降が多い)、誰とも話す人がいないから、というわけでもなさそうです。二丁目には、出会い系でもバーでも、エロパワーもあって、人と出会って関係をつくろうとするような人が集って来るせいでしょうか。

それにしても、「孤独死」や「無縁死」という造語は煽りすぎのような気がします。今まで知らなかった人と関係を持つことができれば孤独なんて和らげることは出来る気がするからです。「血縁」を強調したい政策(陰謀)か、とまで思います。NHKが今回、孤独の代償のように取り上げた「twitter」自体、誰かと関わりたいという欲望の意味もあるのに、否定的な見せ方への疑問も残りました。

けれど最近二丁目で、実家住まいの人や、実家にすぐに帰ることの出来る距離で一人暮らしをしている人(同世代)に立て続けに出会って思い出したのは、関西にいた頃の自分の安定感のようなもので、たしかに「地元」や「血縁」が生み出す磁場の強さはあって、それを必要とする感覚はまだ私の中にあるわ、と感じました。
ただ、それは有りか無しかではなくて、今それをどの程度必要としているかどうか、くらいでいいような気もします。

そんななか、身近にいた人が失踪しました。
そういうことってほんとにあるんだわ、と思いました。
身近にいた周囲の誰もが、その人が都内のどこに住んでいるかは知らず、携帯電話が繋がらなくなればもう連絡をとることが出来ません。詳しくは書けなくて、しかも逆説的で申し訳ありませんが、なんとなく、その人と接してきた今までの様子から、今、その人が、地元に帰ることができていたらいいな、なんて、「ドラえもん」の歌のように思っています。

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茶屋ひろし(ちゃや・ひろし)

書店員
75年、大阪生まれ。 京都の私大生をしていたころに、あたし小説書くんだわ、と思い立ち書き続けるがその生活は鳴かず飛ばず。 環境を変えなきゃ、と水商売の世界に飛び込んだら思いのほか楽しくて酒びたりの生活を送ってしまう。このままじゃスナックのママになってしまう、と上京を決意。 とりあえず何か書きたい、と思っているところで、こちらに書かせていただく機会をいただきました。 新宿二丁目で働いていて思うことを、「性」に関わりながら徒然に書いていた本コラムは、2012年から大阪の書店にうつりますますパワーアップして継続中!

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