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ビョークとシェール。言葉以上にカラダで示すタイプね!

高山真2015.03.04

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 日本では「ジブリ作品がアニメの賞を獲れるか」という部分だけで大きな話題になりがちな、アメリカのアカデミー賞。まあ、日本の映画賞より見どころが多いのは、どう言いつくろっても事実よね。

「アメリカはきちんとその作品や演技のクオリティの賞を決めている。パーフェクト!」なんて言うつもりはないのよ。実在した人物を(少なくとも外見上は)そっくりに演じた人に賞が与えられる確率の高さといったら! キャサリン・ヘプバーン、トルーマン・カポーティ、レイ・チャールズ、エディット・ピアフ、スティーブン・ホーキング、マーガレット・サッチャー……調べもせずにちょっと思い出しただけでこれだけ出てくるわ。

加えて、アメリカの自国びいきの凄さも、見聞きはもちろん実際に経験したりするレベルで知っているし。このアカデミー賞でも、英語圏以外の作品はけっこう冷遇されていたりする。たとえば、そうねえ……、最優秀主演女優賞を獲った『恋に落ちたシェイクスピア』でのグウィネス・パルトローより、同じカテゴリーにノミネートされていた『セントラル・ステーション』のブラジル人女優、フェルナンダ・モンテネグロのほうが、正直比較にならないほど素晴らしかったし、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスはそれぞれ助演賞を獲った『ノー・カントリー』と『それでも恋するバルセロナ』より『BIUTIFUL』(いいスペルミス)と『ボルベール』のほうがはるかに光り輝いていた。アジア圏の俳優たちが母国語で演じた作品はノミネートすらされないし。これは、外国語映画が字幕ではなくほとんど吹き替えで上演される、アメリカの文化そのものとも関係しているのかもしれないし、そもそも日本のアカデミー賞は、外国人の役者は一度たりとてノミネートされたこともないのですが。

まあ、それは置いておいて、オスカーを受賞した人がステージ上で行うスピーチも、見どころが多くて好き。「無難に通り一辺倒のことを言う」のが美徳の日本のやり方だと逆にあっさり忘れられてしまうアメリカでは、それぞれが心に溜めていることをガッチリ表現するほうを選ぶし、それが喝采を呼ぶのも素敵ね。今年は、女優たちのギャラのみならず仕事を持つ女性たちすべての賃金の低さをパワフルにディスった助演女優賞のパトリシア・アークエットと、若い頃に自殺を考えたことを引き合いに出しながら「ヘンなままでいい。みんなと違ったままでいい」と若い人たちにメッセージを送った脚本賞のグレアム・ムーアが強いインパクトを残したわ。

パトリシア・アークエットのスピーチにアメリカ女優界のボス、メリル・ストリープが腕を突き上げて賛同していたりジェニファー・ロペスも手が割れそうなほど拍手していたり、大御所的存在のシャーリー・マクレーンなんて感激でほとんど泣きそうだったのも印象深かった。去年ケイト・ブランシェットが主演女優賞を獲ったとき「女性映画、女性がセンター(主役)の映画はニッチなマーケットしかない、とか古くさくて馬鹿げた考えを持つ人が多くてね。観客にも人気だし、実際お金だって稼いでいるじゃない」とスピーチしたのを思い出したわ。「映画は女優で選ぶ」のが基本のあたくしにとっても大いに賛同するところね。

グレアム・ムーアは、そのスピーチの内容から、セクシュアリティのカミングアウトも内包しているのだろうと思っていたんだけど、「どうもそれは違うらしい。過去にうつ病だったことを話したとのこと」という情報もあるそう。ただ、どちらのカミングアウトであったにせよ、同じカテゴリーで苦しむ人たちに希望をなげる者であったことは間違いないけれど。

通り一辺倒の、エレガントで、きれいにまとめた言葉には、固定観念や因習を作っている「枠」を広げたり打ち壊したり、そんな力はない。そんなことはすでに多くの人が知っているでしょう。でも、それは言葉だけに限った話ではないのよね。

あたくしはここ数年、アカデミー賞の会場でほぼすべての女優が、すばらしいオートクチュールではあるものの「通り一辺倒で、エレガントで、きれい」なドレス姿であることに少々欲求不満だったりするの。ファッションだって、固定観念や因習を打ち破るのは、突飛でヘンテコリンで、あえて言うなら「頭がどうかしちゃってる」デザインなのよ。

女の身体的自由どころか健康まで阻害する、コルセットでウェストをキツキツ・ぎゅうぎゅうに締め付けるスタイルを「エレガント」だとしていた時代に、ポール・ポワレやココ・シャネルのスタイルはさぞ突飛に見えたことでしょう。「男性から見て『エレガントでゴージャスで金がかかりそうだけど、いい女』に見える」スタイルが全盛だった時代に出てきた川久保玲のデザインは、実際「エレガンス至上主義」のファッション評論家からクソミソに叩かれたし。そんな「エレガントって何? 女らしいって、どういう意味だと思ってる?」というスタート地点から、川久保玲はどんどん極北に突っ走り、いまでは「ジャケット」とか「スカート」と容易には名づけることができないようなアイテムをショーで発表している。「つまりは、服って何?」って部分を、服を通して問いかけているのでは、と。

そんな思いがベースになっているあたくしは、やはり、さまざまな慣習、因習を打ち破ってくれるオンナが大好き。アカデミー賞では、やはりシェールとビョークが歴代の両横綱だったわ……。


(30年ほど前にシェールが主演女優賞を獲ったとき)

 30年前このカッコが相当な物議を醸しただろうことは容易に想像がつくけれど、その翌年、今度は助演男優賞のプレゼンターとして登場したシェールのカッコがこれ。



前年をさらに超えるカッコで現れ、しかも「アカデミー側から『シリアスな女優みたいに着こなす方法』って本を受け取ったの。(それを読んで、ちゃんと実行したのが)わかるでしょ」とおしゃれ極まりない一言を。

アメリカなりのスノビズムあふれるアカデミー賞の会場を、たったひとりで場末のストリップ小屋へと変貌させたシェール御大。こう言うと、気を悪くされる方もいるかしら。あたくしは完全に褒め言葉として言っているのだけれど。ただ、当時はドラァグクイーンしか取り入れなかったであろうこうしたデザインのあちこちに、その後ヴェルサーチとかゴルチェとかガリアーノたちが広めた「ニュアンス」があるのを、ファッションに詳しい人ならお気づきになると思うわ。蛇足ながら、シェールはマドンナ以前にアメリカのゲイたちの間でアイコン扱いされた伝説級の人物。「場末」とか「下品」といった本来マイナスな意味の事象に強烈な「センス」を吹き込むやり口、「悪趣味に対する、いい趣味」のクオリティに血道を上げるゲイたちが、シェールの行動に狂喜乱舞したのは容易に想像がつくわね。

そしてビョーク。白鳥を体に巻き付けたような衣装は、日本では志村けんのコントでしかお目にかかったことのないタイプ。しかもレッドカーペットでは、このカッコのままで卵まで産み落としたからね! シェールの悪趣味には諸手を挙げて狂喜した日本のゲイたちも、このカッコと一連のパフォーマンスには「?」を抱かざるえない、ってのも多かったのを記憶しているわ。



 まあね、「何をしたいのかはともかく、何を伝えたいのかに関してはまったく意味がわからない」という反応があるのも当然ですよ。でも、デビュー当時の川久保玲、そしてここ2~3年の川久保玲が、「たやすく理解されること自体を拒んでいる」ような服を作り、しかし同時に、招待客の数は絞っているにせよ「マスに向けて発表している」、それを両立させていることの「意味」をどうしても考えてしまうように、ビョークのすることを「好き嫌い」とは別の感情、意識で考えたい衝動にかられてしまうの(ちなみにあたくしは、川久保玲のコレクションを見るのは大好きだけど、コレクションラインの服はもう10年以上買っていない。買っているのは「PLAY」ラインや「オム・プリュス」ではなく「オム」のライン、それから「シャツ」のラインね。そしてビョークは川久保玲のコレクションラインをけっこう着ている)。

「好き嫌い」の次元を超越したところで行動している人が、数年後、もしかしたら数十年後に、人間の「何か」を変えている可能性もある。それをあたくしは川久保玲や草間彌生やビョークの中に見て取るの。そういう意味じゃ、レディー・ガガが早くもジャズやスタンダードに行ってしまったのは少し残念。今回のアカデミー賞では『Sound Of Music』演ってたし。生き急ぎすぎっつうか、なんか、まとめにかかるの早すぎない? 

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