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松本隆の描く世界こそが、あたくしにとっての『美しい国』なわけですよ

高山真2015.07.27

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 体調がすぐれず、ちょっと間が空いてしまって失礼いたしました。

 あたくしが伏せっている間、新宿二丁目のとあるラウンジでは、作詞家・松本隆の作品をずっと流し続け、合間合間でドラァグクイーンたちがお気に入りの松本隆の曲でショーをするというイベント「松本隆ナイト」が行われていたの。タイミングとか体調の問題で行けなかったイベントは過去にもいろいろあるけれど、今回ばかりは言うことを聞かない体が悔しかったわね。

 この連載だとこの回でも書いたし、過去に自分の本でも何度か松田聖子のことを書いているあたくしですが、その中のどこかで「あたくしは松田聖子チルドレン以上に松本隆チルドレンかも」と書いているはずです。

 松本隆の作詞のすばらしさについて、いまさらあたくしがどうこう言うのも実はためらわれるわ。何十年にわたってさまざまな場所や媒体で語りつくされているわけだしね。最近でも『BRUTUS』(マガジンハウス)が特集を組んでいた。ブルータスでは「切ない恋心、淡く華やかな気持ち、少女の気まぐれ、男の苦い思い出……」というリードで特集を表現していたから、あたくしは少々別のアプローチで書いてみようかと。

ブルータスでは、多くの著名人が薬師丸ひろ子の『WOMAN』を「印象に残る詩」として挙げていたけれど、確かにあの曲は傑作中の傑作ね。あたくしも過去、何度カラオケで歌ったかわかりゃしないわ。
『WOMAN』と『哀しみのボート』(松田聖子)は、アイドル(出身者)に死の香りがする歌、道行の歌を歌わせている時点で画期的なのだけれど、「時間の岸辺から、オールのないボートで時の河に流される」という風景もすばらしい。どこにもなさそうで、でも、どこかにはありそうな世界にいつの間にか連れられてしまった人たちが、石英の粒のような、マリンスノーのような「星の破片」で満たされる…。1984年、『WOMAN』のリリース当時にはわからなかったことが、『哀しみのボート』が発売された1999年には怖いほどの美しさをもって自分自身に迫ってきたものよ。まあ、いま挙げた2曲のような荘厳な曲調でなくても、『天国のキッス』のような超陽性の歌にも「しえて ここは何処? 私生きてるの?」とか「おしえて ここは何処? 海の底かしら?」みたいな、ちょっと彼岸を想わせるようなフレーズを入れ込んでいたりするのに気づいたのも、発売からずいぶん経ってからだったりするのだけれど。そこはかとなくエロティックね。ちなみにフランス語ではエクスタシーのことを「小さな死(la petite mort)」と呼ぶそうで、そのことをあたくしの目を見ながら教えてくれたのが、かのジャンヌ・モローです。豪華…!

「歌詞が素晴らしい」「情景を描くのが上手い」と言われるソングライターは、何も日本だけに生息しているわけではないわよね。英語圏の人だと…そうねえ…好き嫌いはあるだろうけどボブ・ディランとジョニ・ミッチェルあたりはよく話題にされるかしら。言うまでもなくあたくしはジョニ・ミッチェルのほうが好きなので、『Both Sides Now』(邦題『青春の光と影』)あたりを引き合いに出させてもらうけれど、「空を流れる雲」を「天使の髪の毛、アイスクリームの城、羽でできた渓谷」に見立てて歌うジョニ・ミッチェルは、その風景から、人生訓のようなものをきっちりと掬い上げてみせるわけ。なんというか、賢者の自意識がそこにあるのよ。あたくしがボブ・ディランにそれほど惹かれなかったのは、メロディの泥臭さもあるけれど、そういった「賢者自意識」がディランの場合はあまりにも強大だったから、って部分もあるわけです。歌の世界にシンクロするのに、どうしてもそれが邪魔になったというか。「俺がその風景を見た。俺はそこに○○を見出した」みたいなね。これって、英語という言語そのものが、主語をきちっと決めないと文章自体成り立ちにくい、というのも関係してるのかしら。「俺(私)が主体。それ以外は客体」という感じ。

「主語をきっちり入れなくても成立する場合が多い日本語。自分はそれの使い手である」ということに、松本隆本人はたぶん非常に自覚的ではないのかな、と思う。松本隆の歌詞は、風景と「ぼく」(あるいは「わたし」)の、どちらが主体かわからなくなるときがあるくらい、「ぼく」(あるいは「わたし」)が薄い…というか、淡い。風景が、人間が何かしらの哲学を導き出すためのツールではなく、人間と等価に並んで、お互いに影響を及ぼし合うもの、あるいは、ときに風景のほうが主体になって、客体と化した「ぼく」(あるいは「わたし」)に何かしらの作用を及ぼすものとして存在しているように感じられるの。だから「時の電車が(私たちを)いま引き裂いた」のだし、「熱帯の花が(私を)招いてる」のだし、「夢は孔雀の羽ひろげ」るし、「時はまるで銀紙の海の上で溶け出し」始めると、「ぼくは自分が誰かも忘れてしまう」(賢者自意識からもっとも遠いところへとワープしてしまう)のでは、と。

 同じく日本語の歌詞の素晴らしい書き手・ユーミンは、卓越した観察眼で、隠喩を散りばめて風景を描きながらも、風景のほうから意志を持って動き出していくような歌詞は意外と少ない。あたくしがパッと頭に思い浮かんだのは『青い船で』くらいかしら。あくまで観察者である「曲の世界の女性主人公」の視線や行動が主役で、主人公の目に映る風景が心情とリンクしていく、という形をとっている。「水の影」という曲では、薬師丸ひろ子の『WOMAN』と非常に近いモチーフが出てきます(「時は川 きのうは岸辺」)が、『WOMAN』では「時の河を渡る船にオールはない 流されてく」というイメージも、『水の影』では「人はみなゴンドラに乗り」「想い出に手をふるの」になる。「乗る」に「手をふる」、ファンタジックな世界でも非常に能動的よね。

清水ミチコがユーミンのマネの極意として、「ユーミンの発声は鼻濁音がないから、“がぎぐげご”が鼻に抜けない。『が』が強い(我が強い)んですよ」と語っていたけれど、ソングライターとしての視線もやっぱり我が強いわね。ただ、これはユーミンと松本隆のどちらが、あるいは日本語詞と英語詞のどちらが優れているかという問題ではなく、素晴らしい作品を作る人間たちの間のちがいを、あたくしが勝手に楽しんでいるだけなのですが。

 別に最近に限った話ではないし、ほうぼうで言われ尽くされていることもでもあるのですが、洋楽邦楽問わず、ヒット曲のほとんどは、その歌詞が貧弱です。なんというか一面的だったり直接的すぎたりね。その嘆かわしさを語り始めると3年はかかってしまいそうだからここでは省きますが、まあ、松本隆やユーミンのファンだったおかげで、何十年と聞いていられる曲が自分にたくさんあるのは幸せだと思いながら、『BRUTUS』を読んでいたわ。体が治ったらカラオケ行きたい。夜を徹しての勢いで、体さえ言うことをきくのならウッドストックばりに3日連続とかで、松本隆の曲ばかりを歌いちぎりたいわ! あたくしの喉に住んでいた小さな松田聖子は、まだ引っ越ししていないかしら。原曲キーで『哀しみのボート』を歌うことから始めてみましょうかね…。

PS
体のことがあってなかなか自由がきかない数年を過ごしてきましたが、近々、「素敵なお知らせのほうもしたい」と思って、老骨に鞭打って頑張っている案件もあります。みなさんにお知らせできる日が来ますように!

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