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ステージ・フォーッ!Vol.5 「時の流れるままに〜とはいきませぬ」

高橋フミコ2019.09.13

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皆さま、甚だしくご無沙汰しておりました。編集長に度々促され、その都度絶対に書くぞと気持ちけ意気込んでは眠りに入り、いつの間にか時は流れました。前回のアップは6月中旬でしたから、もう三ヶ月も前。抗がん剤ハラヴェン投与を終了し、次の治療選択の前にちょっと休憩。可能性は低いが、免疫療チェックポイント阻害剤キートルーダの適用を期待して、遺伝子検査でもしてみるかというタイミングでした。

結果、適用ではありませんでしたので、既存の化学療法を始めました。ACです。アドリアマイシン、シクロフォスファミドという作用機序の違う二剤の組み合わせで、乳がん治療の代表的な薬です。ACは手始めの初回治療に選択する薬と理解していましたが、16年前私の初手はCEFでしたので、Cの部分、シクロファスファミドが共通しているものの、まだ使える余地があるようでした。「手始めの抗がん剤」とは、すなわち手加減なし。ドクター曰く、逃れ得るがん細胞はない。まあしかしそれも投与方法との兼ね合いです。逃れる得る毛根もなく、逃れる得る白血球も赤血球もまたないのですから、体力を維持するには適量で行くしかありません。

今までになくがん闘病者らしい夏でした。実は5月の連休に自転車で転び、左膝を強打しました。この左膝は10代で前十字靭帯断裂の怪我をしてからずっと私の定番ウィークポイントだったので、結構腫れ上がりましたが、湿布したくらいであまり気に留めませんでした。杖やプロテクターを用い騙し騙し日常を送っていましたがちっとも良くならない。40日経つ頃やっと受診し「お皿が割れた跡があるがほぼくっついている」と言われました。人生初の骨折だったが治っているなら良かった。しかしその間、あまり歩行しなかったのですっかり脚力が落ちてしまいした。また、転んだ原因なのでは?とも思っているのですが、抗がん剤ハラヴェンの後遺症で足先の神経感覚がおぼつかない。ACの副作用で立ち眩みと頭痛が酷い。がん細胞はあまり減らずに骨転移周りに放散痛あり。猛暑日や天候不順にすっかり負けて、冷房の効いた部屋でダラダラ、ゴロゴロ、運動不足の悪循環。仕事もままならず当然収入にも響いてきます。お金大事ですが、考えると不安が頭をもたげてくるので、体調の良い時に考えよう今は忘れようと心の微調整。飼い猫に向かって冷蔵庫からアイスキャンディーを取ってきてもらいたいなどと語りかけたり。ステージ4なのに初めて考えました、無事に死んでいく準備そろそろ始める?と。でも、あとどれくらいなのかはまだまだ判断できない気がします。使える抗がん剤も数種類残っているし、薬なしでもまあまあいけるかもしれませんし、他の治療法に期待が全くないとは言い切れませんし、しかも命を脅かす臓器にまだ問題は起きていないなどと、ただぼーっと、同じようなことを呪文唱えるように、思い浮かべては、考えているのかいないのか。16年目の夏、そんな感じで時の流れるままに。でも、ちょっと待った!

先ほど「死んでいく準備」という言葉を放ちました。よく死に際を整えられるのはがん患者ならではという話を耳にします。遺産整理やお世話になった方々へのご挨拶や家族との絆固めとか生前葬や、または疼痛コントロールや、ホスピスか緩和ケア病棟と自宅看取りの選択とか、或はまた元気なうちに海外旅行、そんなイメージでしょうか。もちろんそういうこともありますが、現在の私が、私の今を生きるのに必要なこと、それはなんでしょうと、つらつら考えてみるに、やはり私はどんな人間なのかということに帰結していくような気がします。

2006年に「ぽっかり穴の空いた胸で考えた」を上梓いたしました。この穴ですが、腫瘍でできた胸部の穴でもあり、それ以上に、長年一人抱え続けた心の空洞の吐露という意味でもありました。DV家庭での経験や、ジェンダーへの違和感、フェミニズムへの関心。自分では当時、腹に火の玉を隠し持っているくらいの気持ちだったのですが、ものを書くとはある意味恐ろしいものですね、何だか、気が済んでしまったのも事実です。こんなものかと、ちょっとがっかり、でも気が楽になったのなら良かった。ところが13年経ちましたけれど、心に残った燠火のようなものは消えていなかったと思います。いつでも新しいものに関心を向けてきた私でしたが、いい加減引きずっているものも大事でしょうとそれがあなたを創っているものでしょうと思うようになりました。ま、年相応の普通の成長かも。むしろ気づくのが遅かったかもしれません。

暫く連載を怠っていたツケでしょうか、なかなか本題にたどり着けません。

ちょっといきなりぽいのですが、実はここからが本題です。数日前、いつも通り夜中にデバイスの画面をスルスルなぞっていて、パタと指が止まったのは、「目黒5歳児虐待死」と呼ばれる裁判で、母親である被告人側の証人として公判に立った精神科医、白川美也子氏の連ツイでした。それは、公判で語りきれなかったことの補足説明であり、明確でわかり易いDVという事象の解説でした。経験と知識に裏打ちされ、なおかつ心のこもった長い長い連ツイ。思わず引き込まれていきました。「女児を助けられたのは母親だけだった。故に被告人の責任は重い」と言った検察官の言葉に違和感を持ったと始めに断りがあり、「女児を助けられたのは母親だけだった。故に母親を助けなかった社会の責任は重い」と綴られていました。その後白川氏は24時間を待たずにこの連ツイを削除されました。「結審前に意図した世論喚起を超える可能性があるという判断」ということでした。「たった今も同じことは起きている、そのことに向けて全力を尽くしたくて書いている」白川氏の言葉は消えてしまったので、これは翻訳されて私の脳内に残った言葉ですけれど、私にとっても力になる言葉でした。

真夜中に蘇った子供時代の記憶。閉鎖された家庭という環境で展開するDVの真実、どのような特殊な心理状態が出来上がり継続していくのか、外からはなかなか見えない。渦中のものにとってもそれはまさしく渦中、何が何だかわからない。DV被害者だった母親を亡くした時に感じた自責の念を40年後の今でも手放さずにいた自分を再確認してしまいました。自らの死を意識せざるをえない全然違うサバイバル状況であるがん闘病の最中に、そのことに未だ生きていく根本を支配されているような気がしています。お世話になった皆さんありがとうの心境は遥か彼方と言えましょう。体も心も引きずって、しかしその重量こそが生きていることの領域を押し広げる力になるという予感がしています。

参考 HUFF POST「典型的で、最悪なケース」精神科医が法廷で語ったDVの“車輪構造”と児童虐待[目黒5歳児虐待死裁判・証人尋問
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d77b89fe4b0645135754f52?utm_hp_ref=jp-news

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高橋フミコ

高橋フミコ(たかはし・ふみこ)

60年しし座の生まれ
美大出てパフォーマンスアートなどぼちぼち
2003年乳がんに罹患
同年から約2年半ラブピースクラブWebsiteで『半社会的おっぱい』連載
2006年『ぽっかり穴の空いた胸で考えた』バジリコ(株)より出版(ラブピのコラムが本になりました)
都内で愛猫3匹と集団生活
 
2019年11月21日に永眠されました。
ラブピースクラブの最も長く、深い理解者であり大切な友人でした。
高橋フミコさんのコラムはここに永久保存したく「今のコラムニスト」として表示し続けます。
 

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