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禁断のフェミニズム Vol10 ボディ・ポジティブと自尊心

相川千尋2020.07.02

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多様な体形を肯定する「ボディ・ポジティブ」という考え方が、日本でもだんだんと知られてきている。

「太っていようが、痩せていようが、体に傷跡があろうが、白い肌でなかろうが、どんな体も美しい」と認めることで、自尊心を高めようという運動だ。

現代社会には、痩せていることを女性の美の絶対条件とする強い規範がある。だから、ボディ・ポジティブの運動を主に担っているのは必然的に、太っているとされる女性たちだ。

インスタグラムやツイッターで #bodypositive#bodypositivity というハッシュタグで検索すると、しっかりと体に肉のついた女性たちが、ビシッとポーズを決めている。

ただ、私は大事なことだと思う反面、下着姿などのセクシー系の写真が多いことや、「自尊心」「自己肯定感」という言葉が苦手なことから、ほんとうのところ、あまり理解できないでいた。

私のまわりの心優しい人たちは、自尊心を扱った本があるとその書評の切り抜きをくれたり、私の話を聞いたうえでていねいに説明してくれたりしたのだけど、いつまでも腑に落ちないでいた。


「自尊心」が問題になるとき

私が「自尊心」という言葉が苦手なのは、日常会話の中で自尊心が問題になる場面と関係がある。

好きな男にないがしろにされた、その男と不本意な関係を続けているが嫌だと言えない、嫌なことを言われたけど言い返せなかった──。そんなときに友人たちがまるで自分を責めるみたいに「私は自尊心が低いから」と言うのを耳にしてきた。それは、彼女たちのせいではないのに。男だから自分が優位に立たないといけないと思い込んでいる相手の男が悪いのに。

見た目についても同じだ。自分に自信が持てないのは、自信が持てないようにさせている社会が悪い。なのに、なんだか自分を責めるように「私は自尊心が持てない」と嘆いているのを聞く。

そうやって悩む人たちに、「自己肯定感」や「自尊心」をはぐくめば自分を愛して生きやすくなると伝えてしまうのは、苦しんでいる人に「立ち上がれ」「変わらない社会にあらがって自分を愛せ」とさらなる努力を強いるようで、好きになれなかった。

社会を変えないと解決しない問題だし、自尊心のあるなしに関係なく誰でも尊重される社会にするほうを目指すべきだと思っていた。


ボディ・ポジティブへの批判

私とは批判のポイントがずれるけれど、ボディ・ポジティブの元活動家の中にも、「自尊心」を重視する運動のあり方を批判している人がいる。

アフリカ系フランス人のブロガーで詩人の「キエミス」だ。カメルーン出身の両親と祖母、双子の弟とともにパリ北東部郊外で育った移民二世の詩人で、アフリカ系女性の歴史と記憶の継承などをテーマにした詩を書いている。

そのキエミスが2017年7月、フランス版「バズフィード」に、
「どうして私はボディ・ポジティブ運動から遠ざかったか」
という記事を寄稿した。
https://www.buzzfeed.com/fr/kiyemis/comment-je-me-suis-eloignee-du-mouvement-body-positive

キエミスのインスタグラム
https://www.instagram.com/p/B6iWt0OAdz6/?utm_source=ig_web_copy_link


キエミスは13~14歳くらいの時に、自分は太っていると考えるようになり、以来、太っていることをまわりに許してもらうために、いつも優しく陽気にふるまおうとしていたと語っている。

そんなときに、インターネットを通してボディ・ポジティブと出会い、夢中になった。キエミスは言う「彼女たちは太っていた。おしゃれだった。幸せそうだった」。同じ悩みを持つ仲間とつながり、怒りや悲しみをわかちあったという。

だがキエミスは、今ではボディ・ポジティブ運動に批判的だ。批判のポイントは、白人中心であること、多様な美といいながら、インスタグラムで「いいね」がつくのは、太っていても、より美の規範に近い体形をしたアシュリー・グラハムなどセクシーな女性ばかりだということ、胸などの男性が喜びそうな特定のパーツが強調されすぎていることなどだ。

まだ始まったばかりの日本のボディ・ポジティブではあまり見られない傾向だが、欧米方面を見ていて、たしかに私も同じ問題点を感じた。

キエミスは続ける。

「さらに悪いことに、ボディ・ポジティブ運動は“自尊心”の誇示に頼った運動で(…)社会の美の規範には疑問を抱いていない。そして、女性に植えつけられている自己嫌悪が、女性身体に対する、支配の道具であることを理解するための道具を提供せずに、“自分を愛せよという命令”を私たちに押しつけている」

そこでキエミスが向かったのが、1960年代にアメリカで始まった「ファット・アクティビズム」あるいは「ファット・ポジティブ」という運動だ。

「ファット・ポジティブ運動は、私が最初にボディ・ポジティブ運動で気に入った点に焦点を当てていた。つまり集団で、社会の肥満嫌悪を告発し、太っている人もほかの人と同じように尊重される権利があると肯定しようとする点だ。この運動では、自尊心の問題はそれ自体が目的ではなくなる。自尊心は、もっと全般的な抑圧構造の、批判のための原動力となるのだ」

キエミスが言いたいのは、エンパワーメントだけでなく、社会につながっていく問題意識を忘れずにいたいということだろう。私も、なんとなく同感だった。

 

私に見えていなかったこと

しかし、最近、日本のボディ・ポジティブ界隈が発信しているテキストを読んでいて、「ここまで傷ついているのか」と私には見えていなかった世界があったことに気がついた。

見渡してみれば、たしかに社会の中には、存在をまるごと認めてくれるような全肯定の言葉が圧倒的に不足している。「正しいやり方」をうんぬんする前に、まずはともかく肯定の言葉をかけることが、生きるか死ぬかというレベルで重要なのだ。

思い返せば、私が今のように「自分の体は完璧ではないけど、まあオッケー」と受け入れられるようになったのも、いろいろな出来事の積み重ねがあったからだ。

20代半ばにイスラエルに旅行したことがある。急に思いついて、いかにも異国らしい異国が見てみたくなって行った。

その時、首都エルサレムの新市街(しんしがい)でレギンスにTシャツ姿の女の子たちをたくさん見た。他の都市では見かけなかったから、局地的な流行なのか宗教的な理由なのかよくわからないが、とにかくたくさんいた。

その子たちはみんな太っていた。私は自然に「日本人だったら、そこまで太っていたらそんな格好で外を出歩かないだろうな」と思った。少し長めに滞在したことのあるフランスでも、目にしたことのない光景だった。

でも、みんなものすごく堂々としていて、これがうわさに聞いていた「イスラエル人はほめられまくって育つから自信満々」ということなのだろうか、と考えたりした。

私はその当時、「痩せてはいないよね」などと男に言われて、「ケッ」と思うと同時に、でもやっぱりあと3キロくらい痩せたいものだ、と思っていた。けれど、イスラエルの女の子たちを見て、「あと少し痩せたい」みたいなことが、すごくバカバカしくなった。のびのび生きている女の子たちを見ていたら「まあ、たしかに、泣いても笑ってもこれが私の体だしな」と開き直った気分になった。

当時はまだボディ・ポジティブという言葉はなかったけれど、これはボディ・ポジティブ体験だった。

インスタの作り込まれた写真を見るだけで何か変わるのだろうかと思っていたけれど、多様な体形の人が堂々としている姿を見せることには、やっぱり意味があるのだ。私も影響された。

さらに、コンプレックスを事後的に受け入れていくだけじゃなくて、コンプレックスを生まない社会だったら、自分の体との向き合い方ももっと自由だっただろうと気づく出来事があった。

私はペンを正しく持てないので、右手中指の第一関節にペンダコがある。そのペンダコのせいで微妙にゆがんだ中指の爪は、調子が悪いと青黒い色に黒ずむことがある。ふだんはマニキュアをべったり塗っているので自分でも忘れているのだけど、ときどき「どうしたの?!」と言われ、驚かれる。

別に、コンプレックスではないのだけれど、言われると「関係ないだろ」と思いながら、なぜか腹が立つ。本人たちに悪気がなくても「醜い」と指摘された感じがするのだ。

一方、私の右太ももの前側には、直径5ミリくらいのホクロがある。黒くはなく、薄赤っぽい、たとえて言うなら、唇のような色をしている。「ホクロ」と呼んでいいのか、よくわからない。知らない人が客観的に見たら、かさぶたのはがれた跡や傷跡に見えるかもしれない。

ふと気づいたのだけど、これについて「これ何?」と聞かれるのは、少しも嫌じゃないのだ。

嫌じゃないばかりか、私はこの赤いホクロをとてもいとおしく思っていて、なんなら「私だけの模様」と、ちょっと誇ってもいる。物心ついたころからあって、お風呂に入るたびに見ているから親しみがあって大切に思っている。

こんなふうにまったく違った反応を引き起こす、爪と赤いホクロの違いは何かと言ったら、美の規範があるかないかだ。爪は、健康な色、ツヤ、形をしていないといけない。美しい形だったらなおいい。私の爪を見て驚く人の心にも、私自身の心にも、たぶんその規範があるのだろう。だからこそ、爪の色への言及は単なる事実の描写を超えて、「規格に合っていない」という非難のように感じられるのだ。

反対に、右ももの前側に赤っぽいホクロがあっていいのか、いけないのかは、人類史上、たぶん誰も気にとめてこなかった問題だ。同じホクロが顔にあったら、また違っただろう。

赤いホクロのように、美の規範の及ばない聖域にある、誰にも気にされない体の特徴について人はありのままに愛せるのだ。

同じ愛着を、私は体のほかのパーツには抱いたことがない。強いコンプレックスがあるわけではないけれど、それでもたとえば「髪の毛、少ないけど、パーマかければ、かわいいからいいや」というような、コントロールしたうえで、ある程度思い通りになったらオッケーみたいな判断をしていて、赤いホクロとの温度差がある。

ボディ・ポジティブが実現された社会に生まれていたら、きっと私は赤いホクロを愛するように、自分の体全体を無条件に受け入れることができたんだろう。

これから生まれてくる人たちや、大きくなっていく人たちが育つのがそんな社会だといいと思う。ボディ・ポジティブが社会に広がることを願っている。

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