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禁断のフェミニズムVol.18 「青鞜」とひいばあちゃん

相川千尋2022.01.22

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私の父方の曽祖母は、文字を読むことができなかった。私が小学校2年生か3年生のころだったと思う。漢字ドリルの宿題をしない私に、母が言ったのだった。「ひいばあちゃんは、字が読めないんだよ。銀行では人に頼んで書いてもらわなくちゃいけなくて、すごく恥ずかしいってよ」字が読めない人が世の中にいるということを、しかも家族の中にいるということを、この時、初めて知った。

曽祖母は明治38年(1905年)生まれの大柄な女性だった。いつもモンペを履いていて、薄くなった頭に黒い目の荒いネットのようなものを被っていた。「なか」というひらがな2文字の名前で、一人称は「俺」。私の世代ではほとんど使われなくなっていた、「だべ」などの方言を使って話していた。私たち家族は、曽祖母のことを「ひいばあちゃん」と呼んでいた。ひいばあちゃんは2002年、私が二十歳になった年に97歳で亡くなった。

私の父方の家族は昔から商店を営んでいて、祖父母の家は古い店舗つき住宅になっていた。店の奥に入って一段上がると、そこが「お勝手」と呼ばれる台所兼食堂で、入ってすぐ右手に、急な折れ階段がある。ひいばあちゃんは、この急な階段のすぐ上の部屋で暮らしていた。四畳半の小さな部屋にベッドと小さなテレビと冷蔵庫、箪笥とこたつ、簡易トイレが置いてあって、ひいばあちゃんは1日の大半の時間をその部屋で過ごすのだった。ベッドを背もたれにしてこたつに入り、いつもテレビを見ていた。食事もすべて、部屋でひとりでとっていた。私が物心ついた時にはすでに、ひいばあちゃんの生活はこうしたものになっていた。たまに、近所の友人たちに会ったり、娘である私の大叔母たちに電話をかけたりしていたようだ。

小学校時代の私は、放課後や土日に祖父母の家で過ごすことが多かったのだけれど、ひいばあちゃんはいつも自分の部屋にいて、一緒に過ごした記憶がほとんどない。たまに部屋に遊びに行くと、こたつの中であたためていたリンゴを出してくれた。なぜだかわからないが、ひいばあちゃんはいつも切ったリンゴをこたつで温めて食べていた。

ひいばあちゃんは、ふつうだったら「風邪ひいた」と言うところを、「風邪ふいた」と言っていた。「千尋ちゃん、風邪ふいたの?」子ども心にずっと違和感があったけれど、文字を持たないひいばあちゃんにとっては「風邪」も「風」も「かぜ」という音を持った同じひとつの単語だったのだろう。だから、動詞と名詞の結びつきも、どちらも「ふく」となったのだろうと、私は後から思い当たった(妹のひとりもひいばあちゃんのこの不思議な言い回しを覚えていて、私と同じ解釈だけれど、母はただの方言だという)。

戦後、都市部へ行商に行く親戚たちは、うちに子どもを預けて出かけて行ったそうだ。昔はふつうの感覚だったようだ。ひいばあちゃんは何人もいるその子どもたちの世話を押しつけられていたせいで、子どもが大嫌いになったのだと、ひいばあちゃんの孫である父が言っていた。
日本の墓は、墓石をずらすと中を見ることができる。我が家の墓には、もはやどのような血縁関係かが定かではない小さな骨壺が無数に入っているという。大人になるまで生きることができなかった子どもたちの、小さな骨を納めた骨壺だ。うっかり見てしまった母は、ぞっとした、と言っていた。昔は、墓というものは「本家」にひとつだったそうで、今となってはつながりのわからない親戚の骨もそこには眠っているのである。

私は長いこと、ひいばあちゃんは小学校へ行くかわりに子守りを押しつけられていたのだと思っていたので、ずっと、ひいばあちゃんと小さな骨壷を結びつけて考えていた。ひいばあちゃんは、高い幼児死亡率の中で、どんどん死んでいく子どもたちの世話をしていたのだろうかとか。事実は違ったのだけど。

ひいばあちゃんは、私のことも、かわいがるというふうではなかった。何歳くらいだったろうか、ある時、私は仏間のふすまに張ってあるふすま紙をやぶくことがやめられなくなった。いけないと思いながら、あと少し、あと少し、ここの破り跡がいびつなところだけ、とやっているうちに私はふすま1枚分のふすま紙をほぼ破いていた。両親に叱られることは覚悟していたが、一番本気で怒ったのはひいばあちゃんだった。ひいばあちゃんはふすまの前に背中を丸めて座り、私への怒りの言葉をぶつぶつとつぶやきながら、びりびりに破られたふすま紙を片づけていた。父に言われて謝ったけれど、目を合わせてもらえなかったと思う。こういう怒り方は、私をかわいがり、甘やかしていた祖父母にはできないことだった。

ひいばあちゃんは猫も大嫌いだった。飼っていた猫が3匹の子猫を産んだ時、私たち姉妹が毎日成長を見守っていたその子猫を、ひいばあちゃんはある日どこかに捨ててきた。ちょうどその日うちに遊びに来ていた大叔母たち、つまりひいばあちゃんの娘たちは、口々に「野良猫が子猫をくわえて行くのを見た」と証言した。私は信じたけれど、母は大叔母たちの証言は不自然だと言った。ひいばあちゃんにはペットというものが、無駄なものに思えたのかもしれない。猫はその後、避妊手術を受けた。

私がインターネット上で見つけることのできた研究によれば、学校教育の普及が低迷していた明治初期20年代半ばまでの識字率は、最大で男子で50〜60%、女子で30%前後と推測されるようだ*。その後、日清日露の戦争を経て小学校への進学率が上昇し、新規の非識字者の出現は明治末までにはほぼゼロになったようである。同じ研究によれば、こうして識字率が改善されたため、日本では途上国などでおこなわれているような組織的な識字教育キャンペーンがおこなわれた形跡がないということだ。ひいばあちゃんは、こうした状況の中で、取り残されてしまった人だった。

戸籍を調べたことがある。ひいばあちゃんは、大正14年(1925年)10月29日に、二十歳で曽祖父と結婚し、翌月11月5日に長男である私の祖父を出産したとある。入籍の1週間後が出産なのだ。昔はいいかげんだったとはいえ、子どもが産まれることが確実になって初めて、籍を入れたように見える。子どもができなかったら、ひいばあちゃんはどうなっていたのだろう。戸籍によればひいばあちゃんは、大正14年(1925年)から昭和15年(1940年)の間に男子4人、女子3人の7人の子どもを産み、男の子のひとりを生後2カ月で亡くした。また、別のひとりは勘当されている。私は覚えていないが、父によればこの人は、ひいばあちゃんの葬式には顔を出したそうである。

私が生まれた時には、曽祖父はすでに亡くなっていた。長男であった私の祖父は、ひいばあちゃんにやさしくなかったと思う。ひいばあちゃんはそのことをときどき嘆いていた。今思うと、少し泣いていたかもしれない。祖父はひいばあちゃんに向かって「このババア。俺がこの家で一番えらいんだ」と言っていた。こんな嘘みたいなセリフを何度か聞いた覚えがある。戸主というもはや存在しない地位が、祖父の頭の中ではいつまでも生き続けているのだった。

ある時、選挙から帰ってきたひいばあちゃんが、私の母に聞いた。「薫ちゃん(母のこと)、どこ入れた? 俺あ、自民に入れたんだがよう」私は母に、「選挙で誰に投票したかは絶対に人に聞いてはいけない」と厳しくしつけられていて、それが世の中の常識だと信じていたので、衝撃を受けた。

私の父方の祖父は、父によれば「反体制派で、党員ではなかったが共産党シンパで、親友は任侠的くず屋」だったという曽祖父の反動で自民党に入党していた。一方、母は天皇のことを「天ちゃん」と呼ぶ家庭で育っている。あとで聞いたところによると、家庭内で政治問題が前景化するのを避けるために、母はこんなきまりをつくったのだった。私がこの日のことをよく覚えているのは、このきまりのおかげである。

母は、はっきり答えなかったように思う。ひいばあちゃんは、自分の部屋に上がっていった。
最近、読み書きができないひいばあちゃんがどうやって投票をしていたのか気になって、母に聞いてみた。選挙の前に祖父が字を教えていたとのことだった。文字が書けない人が投票したいと思ったら、どうしても誰かの教えを乞わなければならない。それはつまり、憲法で保証されている秘密投票ができないということなのだ。

昨年秋、友人と「骨までしゃぶる」(加藤泰監督、1966年)という作品を京橋の国立映画アーカイブで見た。これは、遊廓制度とその中で生きる女性たちの日常と抵抗を描いた、わりとドタバタしたフィクション映画で、舞台は明治33年(1900年)。調べてみたら、この年は大審院審判によって廃娼の自由が認められた年だった。上映後のトークによれば、フィクションではあるが、時代考証はかなり正確ということだ。1956年の売春防止法の制定により遊郭が消滅してから10年が経ち、だんだんと懐古的に美化して描かれることが増えてきた遊郭の実態を、もう一度、批判的に振り返ろうとした作品と位置付けられるようだった。

この作品に、公娼廃止運動をしていた救世軍のビラ「ときのこえ」を必死に読み込むひとりの遊女が出てくる。この遊女は、私のひいばあちゃんより18歳年上の明治15年(1882年)生まれという設定で、難しい字は読めないし、自分の名前もたどたどしくしか書くことができない。映画は、彼女が同輩にもらった、たった1枚のビラにルビをふってもらい、大切に読み返し、行動を起こす勇気を得るさまを描いていく。さまざまな場面で何度も画面に映り、最後にはボロボロになった、ルビの振られたビラの映像には説得力があった。読み書きができない人が文字を獲得していく過程は、このボロボロのビラのようなものだったのではないかと思う。あるいは、もっと厳しい道だったかもしれない。この映画を見た時も、私はひいばあちゃんのことを思った。

日本初の女性による女性のための文芸誌「青鞜」が創刊されたのは、ひいばあちゃんが数えで7つになる明治44年(1911年)だ。でもひいばあちゃんは、言葉を持たなかった同時代の大多数の庶民の女性と同じように、そんなものとは縁もゆかりもない人生を送った。

ひいばあちゃんが私の身近にいたのは、私が中学校に上がるまでの短い間だから、私には子ども時代の断片的な記憶を通してしか、ひいばあちゃんの姿を伝えることができない。それでもひいばあちゃんの人生の背後におぼろげに見えるのは、人生の選択肢というものを持ち得なかった大勢の日本の女性たちの姿である。

ひいばあちゃんが、近所のお年寄りの誰かのことを「あの人は昔からなんでも持っていて、うらやましかったよ」と何かの折に話していたのを聞いたことがある。自分の思う通りに生きる道が初めから塞がれていたひいばあちゃん。文字を持たなかったひいばあちゃん。何も持たなかったひいばあちゃん。言葉を持たなかったひいばあちゃんの考えていたことは、その命が尽きた時に永遠に失われてしまった。

最近、ある人と明治時代の教育を受けられなかった女性たちについて話をした。私はひいばあちゃんのような女性は少し前までは日本にたくさんいたわけであり、私が見聞きしたようなことは、広く共有されているのだろうと思っていたけれども、どうもそうではないらしかった。都市部と農村、知識階級と庶民との間の圧倒的な格差が、教育と経済、社会的地位、その他すべてにわたって当時の女性たちの運命を縛っていたのだけれど、そのことがどうも、感覚として共有されていないようだった。

誰しも自分以前に生きた人々の歴史を背負って生きている。私たちは沈黙と忘却の中に沈んだ女性たちの歴史の上に、今を生きている。私は、銀行で恥を忍んで行員に文字を書いてもらった私のひいばあちゃんの人生を、私と話をしたその人に知ってもらいたい。

*斉藤泰雄「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」、広島大学教育開発国際協力研究センター『国際教育協力論集』第 15 巻 第 1 号(2012) 51 ~ 62 頁
https://cice.hiroshima-u.ac.jp/wp-content/uploads/publications/15-1/15-1-04.pdf

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