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唯女論第三回 「弱きもの、汝の名は女なり」

黒田鮎未2023.03.08

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こんにちは。前回の記事から間が空いてしまいました。私事ではありますが同居していた家族が倒れ生活全体がばたばたしており、心にも物理にも余裕がないなか、世間があいかわらず目まぐるしく動いていくのをぼんやり眺めていることしかできませんでした。ところで「ばたばたしている」というとせっかちな人があっちこっちに走り回っているような絵が浮かんでくるのですが、ああ私は今ばたばたしているなあと思うとき、頭の中だけ大嵐で、体は実際のところ鈍重になっていくことが多い気がしますが、ただ季節の変わり目で自律神経が乱れているだけかもしれません。

「弱きもの、汝の名は女なり」

嵐荒れ狂う頭の中に最近この言葉が何度も響いています。

シェークスピアの「ハムレット」に出てくる台詞「Frailty,thy name is woman.」を明治の小説家、坪内逍遥が訳したものです。

ハムレットの母親が夫の死後すぐに夫の弟と結婚したことを嘆く台詞であり、女とはかくも心変わりの早いもろい生き物よという意味ですが、いったんそれは横に置き、私は考えてみたいのです。女を女と名付けたこの世界のことを。

フェミニズムはみんなのもの、フェミニズムは誰も排除しない、などと言われている昨今ですが果たしてその言葉の内実はなんなのでしょうか。

近年Twitterには包摂や多様性などを掲げながら「女」によるフェミニズムを嘲笑する言葉があふれています。「女」という属性をふりかざし、ありもしない恐怖をふりかざし、被害者性をふりかざし、排他的であり、セックスワーカーを貶め、トランスジェンダーを差別していると。

そのような「女」偏重のフェミニズムは男女二元論、生物学的本質論に侵されている。それは差別であってインクルーシブではない。インクルーシブでなければフェミニズムではないと。

そして「女」を冠したフェミニズムは忌避されつつあります。「女は女に生まれない。女になるのだ」とかつて喝破したボーヴォワールはこんなことが起こると想像できたでしょうか。女は女らしくしろという規範に抗った先達のフェミニストたちは、「女なのに女らしくない私は男/ノンバイナリーなのだ」「女らしさに親和性がある、帰属意識を感じる男は女としてあつかう」などの荒唐無稽な転倒を、高尚な逸脱・規範の攪乱・家父長制への反抗であるなどともっともらしく詭弁を組み立て現実を錯覚させたすえ、ただ昔からそこにあった女性差別に目もくれず突き進む尖兵に現代のフェミニストがなろうとしていることを予見できたでしょうか。ボーヴォワールの言葉を「女は女に生まれた者のことではない、自分の意志で女になった者のことである」と解釈することはあまりにも意図的な誤訳であり、ニュースピークもかくやという周到なプロバガンダであると驚嘆すらします。

それは差別であると言われるほどの、女が発してきた被害者性とは一体なんなのでしょうか。誰でも自分の被害を被害と認めることは苦しいことです。私は性売買の世界で20年という長い時間を生きていたわけですが、その間におきた出来事は思い出せても、痛みや恐怖、戸惑い、怒り、悲しさ、すべてはまだ雲の向こうにあるようにぼんやりとして、今もはっきりと見ることはできません。

女の身体を持ち生きていくことを嫌でも何度も何度も突きつけられ、この身体を捨てたい、何も感じたくない、頭もいらない、私は人ではなくただの肉の塊なのだと折り合いのつかない折り合いを何度もつけることで生きのびてきました。

被害者性をふりかざすな、という言葉は女の身体が受けてきた経験を暗闇のなか手探りでつかもうとする勇気を挫きます。そしてそう冷酷に言い放ったあとで「性別を間違えられるのは死ぬほど苦しい」のだからと、女の権利を、女だけの安全な空間を、女らしさというコルセットを外す自由を、「女の定義は私がする。私の性別は私が決める」と乱暴になぎ倒し女たちが勝ち取り築いてきたものを乱暴に更地にしていくのです。

「弱きもの、汝の名は女」フェミニストであればまずこの言葉に反発するでしょう。女が弱い生き物なんて誰が決めた、この世界を牛耳ってきた男達が勝手に決めたんだろう、女は人間だ、と。全くその通りです。私は女だが強い、と言いたくなる人もいるでしょう。

しかし最近ジェンダーという名の旗の下で「女は弱い生き物だ。ならば、強くありたい、正しくありたいならあなたは女ではないかもしれない」という誘惑を囁く声が聞こえてくるのです。「女」という名を捨てれば、拒否すれば、女が抑圧されてきたこの現実から自由になれるのでしょうか。なぜ女はただ女であると言えなくなっているのでしょうか。「女」という肉体の現実は希釈され、ファッション的に消費され続けるフェミニストというステイタスが女達の結束をバラバラにしていくのを感じます。フェミニズムは今やなりたい自分になる為のツールであり、弱き「女」に優越するため、女に「女」の名を自ら捨てさせ、「女」を消すために利用されているのです。

弱さとはなんでしょうか。強さとはなんでしょうか。弱いことの何が悪いのでしょうか。弱さを嫌悪することは差別心の現れだと説く反差別標榜界隈の人たちも無自覚にも女の弱さだけは嫌悪し続けるのです。これを先達のフェミニストはミソジニーと名付け戦ってきたはずです。男の暴力を、支配を甘んじて受けたわけもないのに、被害者性を根拠に喋るなと抑圧され、女性としてのジェンダー規範を生得のものとして受け入れた覚えもないのに、特権を自覚しろとさらに抑圧される。このような女性差別的な空気に迎合して保身に走ることが強さなのでしょうか?

女が女として、男並になる努力をしたことのご褒美ではなく、ただ女のままで、ハンデのある身体のままで、弱いままでも生きられる、社会の中で人間として平等に生きられることを目指すのが私の考えるフェミニズムです。

「あらゆる性の平等の為に被害者性しか根拠のない女は黙ってください」

と平然と言い放ち、セックスワークは立派な仕事だなどと嘯き、男を女として扱えと強要することを正義の実現と考えるような破綻した思想は女を搾取し殺し続けるだけです。

性別を選択できるという幻想を売る、商品のカテゴリーを増やす、その内情は問わず選択肢を増やす、また、選択できるかのように錯覚させる、多様性を訴えながら世界は自分の理解可能範囲であると認識させ思考を縛る。境界を軽やかに移動しているかのように錯覚させる、また、境界などないようにふるまうことで社会に存在する暴力を見ない振りをしながら自分の先進度をみせつける。選択とは、自由とは一体なんでしょうか。

「女」の現実を直視しようとしないエリートフェミニストたちが累々たる女たちの死体の上でいくら自己肯定感爆上げダンスを踊ろうとも、それがはたして「女」を救うのでしょうか。彼女たちが壊したものは家父長制でも規範でもありません。女の連帯です。それに抗うために女は女だと言っていく必要があると思います。

私は女です。フェミニズムは女のものです。そう宣言するのは怖いことでしょうか? 悪いことでしょうか?

「ただの女」を見下すためのアイデンティティも、他に優越するための理論武装も、特別な自分を誇示するためのbioも必要ありません。

熱に浮かされることなく、これからも自分の身に起きたこと、ただの女の現実を淡々と見つめ考えていきたいと思います。

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