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今回は父のことを書いてみようと思う。

1920年生まれの父は、男の子として生まれたために、強固に天皇制をすり込まれた。そしてその父、私の祖父は3代続いた魚屋の家長であったらしく、父は福島の小さな村ではあったが、それなりの財のある家庭に生まれた。
ところがその祖父が大酒飲みであったために、父は多分10代前後で、家族7人、祖父に連れられ満州に夜逃げすることとなった。

あまりの借金をそちこちにしまくり、満州に逃げるしかなかったそもそもの原因がお酒だった。そのために父は24歳くらいで現地徴収され、凄まじい軍隊の暴力にさらされるまでは、祖父を反面教師として、一滴もアルコールを口にしなかった。

父はある時、美味しそうにお酒を飲みながら、「24歳で軍隊に入って2、3日後には意識がなくなるほどの酒を飲み出した」と話してくれたことがある。当時まで心にあった「生涯の禁酒の誓い」を何故破ってしまったのか、私はその原因を父から直接聞くことはできなかった。しかし、ある映画との出会いによって、その父が語らなかった2、3日間の暴力の日々を徹底的に知ることになった。

映画はフランキー堺が主演する『私は貝になりたい』というもの。映画は現地徴収された初年兵への凄惨な「教育」という名の暴力から始まる。竹槍で初年兵たち数人がその辺を歩いていた中国の人を棒に縛りつけ、皆んなで突きまくる。
これは十数年前にもリバイバルで同名の映画が作られた。しかしその時にはこの冒頭の凄まじく、残酷なシーンは収録されていなかった。反戦意識が映画という表現手段によっても少しずつ、少しずつ消失していくような戦後の日本の現実がそこにはあった。

全ての戦争は男性を加害者とし、女性と子供達が被害者、犠牲者となる。しかし、そのためには、まず男性自身も兵士・殺人マシーンとなるための暴力に晒される。
父は、私に酒を浴びるように飲むまでの2、3日間に何があったかは語ってくれなかった。語りたくないもの、見たくないものを忘却するために、彼は生涯酒を飲み続けた。極寒の満洲にあっても入隊まで禁酒の誓いを胸に秘めていた、にも関わらずだ。

徴兵された兵士たちは、現地徴収されると即戦力になることを求められた。父に何があったか知るために、もう一度「その教育」を書いておこう。その辺を歩いていた中国の男性を捕まえてきて柱に縛りつけ、初年兵数十人が上官の号令で一斉に竹槍を突いて殺しまくる。「天皇の名においてこの戦争には勝たねばならない、いや絶対に勝つのだ」と、何度も罵声を浴びせられた後、その棒に縛られた何の罪もない中国人に十数人の初年兵達が竹槍で襲い掛かったシーン。

私はフランキー堺演じる兵士の顔に父の顔が重なり、その2、3日間で禁酒の誓いが一瞬に吹っ飛んでしまったことを理解した。映画は白黒だったが、今でもその血飛沫の凄さは忘れられない。その血飛沫を見て茫然としている父、その夜に天皇の駒として殺人鬼となるためのご褒美として酒を飲まされたわけだ。そして、その後のシベリア抑留の中でも、父にとってアルコールは恐怖を忘却し、悲しみと辛さを忌避する装置として中毒化を強いられていった。

ところで父は一家で満洲に渡った後、数年後には祖母を亡くしている。満洲の冬は寒く、植民地主義者であった日本人は現地の中国の人たちを苦境に追いやりながら、豊かな生活をしていた。ただ祖父の大酒飲みはそこでも止むことがなく、祖母は心労で、40歳くらいで早逝した。末っ子の女の子を生み、産後の肥立ちが回復しない中での死だったという。

そしてその、7人兄弟の3女に生まれたその子も生後2ヶ月で亡くなった。原因は父とそのすぐ下の弟2人で、生まれたばかりの赤ん坊の周りで遊びまくってのこと。その子は着物か毛布が顔にかけられても、それをよける力がなかったので、窒息死したのだという。男の子は兵士になるための戦力として、大事にされた時代。また父とその弟がどのように遊んでいたかは想像するしかないが、妹であった赤ん坊を事故とはいえ、死に追いやった暴力性は家父長制の中に野放しだったに違いない。
その上、父は中国の大地を一兵卒として2年半転戦したので、その間に慰安所に何回並んだことだろう。多分、女性に対する究極の性暴力を働いた父。

もちろん、私は彼の口から慰安所とかレイプとかの言葉は一切聞いたことはない。しかし、2年半中国にいた父にとっては、性暴力の加害者であること自体が日常であったろうとしか思えない。先にも述べたアルコールの力で理性を無くし、女性達を監禁し襲いかかる日本兵達。中国で性奴隷にされた方々の証言を読むと、そこでは慰安所というような建物さえ無く、あちこちに監禁されて強姦され続けたという。

私は、父を責めたいとは全く思えないが、こうした歴史的事実を見ないで曖昧にして未来を作ることはとてもできないと思うし、してはならないと思うのだ。

父が肺癌で亡くなる数ヶ月前、私は父に、私が障害を持って生まれたことをどう思ったのかを聞いたことがあった。父は即座に「バチが当たったのだなと思った」と答えたのだ。あまりに辛い言葉で私は二の句が継げなくなったが、生後2ヶ月で事故とは言え末っ子を死に追いやったこと。そして性奴隷にされた女性たちに性暴力を奮い続けた事を何となく知っていたので、今考えると非常に残念なのだが、私も黙ってしまった。

しかしそれらの言葉の背景を深く考えるようになってからは、父の私に対する愛情の特別さが理解できるようになった。私には兄と妹がいるのだが、彼らに向けられた父の罵声や苛立ちは私には全く向けられなかった。父は体の弱い私を心から愛しむ母を見て、母を範とし、私には全く暴力を振るわなかった。
父が亡くなるまで、そして今も父に対する複雑な想い、彼への愛情と静かな怒り、そして許しと悲しみは彼を思い出すたびに私の中に湧き上がり続ける。

次回はその暴力性を内在させながらも母に出会い、私たちを育て、人間として生きようとした父についてもう少し見ていこうと思う。父との出会いなくして、私の今のこの人生はあり得なかったわけだから。

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安積遊歩

安積遊歩(あさか・ゆうほ)

1956年2月福島市生まれ
20代から障害者運動の最前線にいて、1996年、旧優生保護法から母体保護法への改訂に尽力。同年、骨の脆い体の遺伝的特徴を持つ娘を出産。
2011年の原発爆発により、娘・友人とともにニュージーランドに避難。
2014年から札幌市在住。現在、子供・障害・女性への様々な暴力の廃絶に取り組んでいる。

この連載では、女性が優生思想をどれほど内面化しているかを明らかにし、そこから自由になることの可能性を追求していきたい。 男と女の間には深くて暗い川があるという歌があった。しかし実のところ、女と女の間にも障害のある無しに始まり年齢、容姿、経済、結婚している・していない、子供を持っている・持っていないなど、悲しい分断が凄まじい。 それを様々な観点から見ていき、そこにある深い溝に、少しでも橋をかけていきたいと思う。

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