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むちゃセンセーのフェミニズム<今さら>再入門 第9回 ジェンダー秩序と性支配—どぶろっく芸とAKB裁判から見えてくること

牟田和恵2014.11.26

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ご存知ですか、つい最近、11月20日に東京地裁で出された、AKB運営会社を相手取って起こされていた裁判の判決。と言っても、大事件でも何でもなく、ネットニュースで流れていただけなので、知らなくても当たり前なんですが。
原告は38歳の男性。まだ中学生の、あるAKBメンバーの熱烈なファンで、1年余りの間に彼女に500通を越えるファンレターを送り、握手会に参加していました。しかしその中で、性的な表現を用いたり、結婚を申し込む、親の教育方針について口を出すなどの行為が続いたため、彼女はこの男性に対して恐怖を感じます。そこでAKB運営会社が、その男性に握手会の参加を拒否したり、彼女を握手会から外したりしたため、男性はCDを買って握手券を持っているのに権利が侵害されたと会社を訴えたのです。判決は、このメンバーが中学生であるところから、「社会通念上、未だ精神が発達途上にある者に対する言動として適切さを欠いている」とし、「原告との握手を拒否すべきであると考えることにも相当の理由がある」と評価、原告の訴えは却下されました(http://news.livedoor.com/article/detail/9500035/より)。


まったく呆れた裁判で、こういうことを中学生含む若い女性アイドルたちにさせているAKB商法にも腹が立ちますし、訴えた男性(以下、「AKB男」と略記させてもらいます)には尋常ならぬものを感じます。でもこれを、トンデモな訴えで例外的な事件としてだけ考えるわけにはいかないと思います。


というのも、私は、このニュースに、本サイト8月19日付掲載の田房永子さんの「どぶろっくと痴漢の関係」とつながるものを感じるのです(以下、要約してご紹介しますが、ぜひ本文をお読みください)。


田房さんのエッセイは、男性二人組お笑い芸人「どぶろっく」の歌う「男の妄想」と、痴漢犯罪の関係について述べた、とても深い論考です。
田房さんは、中学生のころから何度も痴漢被害に遭ってきて、なぜ痴漢はそんなことをするのか理由がわからなかった。それが、牧野雅子さん著の『刑事司法とジェンダー』で、強姦犯人が、自分が女性のアパートに侵入して犯罪行為をしていながら「被害者のほうから俺の世界に入ってきた」と証言をしていることを知り、その言葉が、田房さんが見てきた痴漢の行動の説明になっていることに気付くのです。「彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ。ハタから見ると充血した眼で股間ふくらませて女の子に不自然に近寄ってるだけなのに、彼らの頭の中では女の子のほうが誘ってきてる、くらいの感覚なんだ。私を家まで送って欲しいとか、私に触れて欲しいと俺は頼まれている、くらいの感覚だったんだ」と。そして、どぶろっくが「ギャグ」として歌う「女のほうが誘ってるんじゃないの」という「男の妄想」は、妄想どころか、痴漢たちのリアルなのではないかと思い至った、というのです。


田房さんはこの感覚を、痴漢加害者は「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っているのではないか、自分の『膜』の中に入ってきたのは女のほうでありその女のことを何をしてもいい「もの」のような感覚で捉えているのではないか、と表現しておられます。私は田房さんの表現がとても腑に落ちたのですが、今、性暴力に焦点を当てた授業をしていることもあり、それからずっと、「膜」とはどういうことなのか、ある種の男たちがそんな膜を作れるのはなぜなのか、もっとわかりやすく言えば、なぜそこまで厚かましくなれるのかを、フェミニズム理論の言葉で説明できないだろうかと考えをめぐらせていました。


そう考えているうちにこのAKB裁判の判決を知り、これは、どぶろっくの歌の妄想男の現実版であり、ここには、フェミニズムがこれまで論じてきた、性差別社会の中で男性が性的主体、女性が性的対象となるメカニズムが、顕著なまでに表れていると思いました。


ファンの病理的妄想は、男女に限らずありますが(アイドルがステージ上から自分を見つめている、アイドルと自分は恋愛していると思い込むのが典型的)、AKB男はこれとは違います。恋愛しているなどという妄想は無く、相手が自分を好きだなんて思ってない(将来的にはそうなりうると考えているようですが)。むしろ、気持ち悪いと思われているのがわかっていて、それでも、自分は彼女に近づく権利があると思っている。


その理由は、裁判での主張によると、握手券を買ったから、です。数千円か数万円分かの金額を払ったから、自分が熱烈に好きな女子中学生アイドルに近づき手を握ることができる、と。地裁判決も、女子中学生でまだ幼いからダメ、と言っているだけで、握手券を買えば接近し手を握る権利があるということ自体は肯定しています。医師が医師法により患者が気持ち悪いからと診察を拒否することは禁じられているのと同じように、キャバクラであれソープであれ、生命の危険を感じるような例外的なことでもない限り、女性に客を断る権利は無い、ということなのでしょうか。


この論理に大いに違和感を感じる女性は(男性も)多いでしょう。当然、この論理の不当性はしっかり批判していかねばならないのですが、でも、その奥にさらに深く横たわっている問題があると私は考えます。つまり、本当は、この社会が売買春や類似の性的売買を許している(法律上のタテマエはともかく)のは、そしてこのAKB男が自分には握手する権利があると考えるのは、「おカネを払った」というそれだけの理由なのでしょうか?


田房さんの論考とフェミニズムが論じてきた性の非対称の関係をつなげて考えてみると、そうではないことが見えてきます。
すなわち、男が女を性的対象としてまなざすとき、そこにはすでに、対象の性を領有することが含まれているのではないか、ということです。おカネを払う場合であっても、おカネはあくまで便宜的なもので、すでに自分が性的対象として領有していることを確認するしるし、オマケのようなものに過ぎないのではないか。
自分が強姦の対象として女を狙ったときその女はすでに自分の世界の中に居る。アイドルを好きになり何枚も握手券を入手し握手や手紙を交わせば、すでにその彼女は自分の世界にいる---こうした認識や態度を無意識にも持ちうることが、男が性的主体として女を客体化するということには含まれているのではないか。「女をものにする」という表現がありますが、ある種の男たちにとっては、女を性的にまなざすことがすでに限りなく「ものにする」ことなのではないか。きわめて腹立たしくも、この社会は、そうした性的視線の権力を「男」に与えているのではないか。そんなのはとんでもない暴論・極論だと思われるかもしれませんが、たとえば何の広告でも、ほとんどつねに女性が性的魅力を漂わせるイメージが用いられている(「清純」なイメージも含めて)のは、女性をまなざすことはその商品を自分のものにすることだというメッセージが暗に含まれているからに他ならないのではないでしょうか。


売買春やAKB商法のように、カネの授受のおかげで、合法的であれ不法であれ、そこで行われていることは単なる「性の売買」として見えています。しかしそもそも、女性と男性の平均賃金の差に見られるように、経済力が明らかに違うのに、そして社会構造がそのような差を生みだし維持しているのに、持っている側がカネを支払うからOKとするのは、性的主体としての男が女を性的に支配することを正当化・合理化する、とんでもないごまかしの論理なのではないでしょうか。カネを払おうが払うまいが、そこで行われているのは、強姦や痴漢と地続きの性支配に他ならないのではないでしょうか。


性支配の実践を個々の男たちに可能にしているのは何なのでしょうか。田房さんは「膜」の中と表現しておられますが、フェミニズムの議論を使うなら、そのような認識や態度は、「支配圏」という言葉で説明できるのではないかと考えます。


「支配」というと、相手を自分の思いのままにする、というような強力なイメージが湧くかもしれませんが(強姦犯罪者はその部類でしょう)、そこまでいかなくとも、相手にさほどの遠慮や斟酌する必要を感じず自分の好きなように振る舞えると無意識的にも思っている範囲、くらいのほうが妥当でしょう。
ちまたに多数いる困ったセクハラ男たちの行動も、これで説明ができます。「悪気もなく」部下の女性の太ももを触ったり、親しくもないのに「早く結婚しろよ」と言ってみたり、女性からすると図々しいにもほどがある言動を彼らはしますが、それができるのは、相手の女性が自分の「支配圏」にいると無意識のうちにも思っているからではないでしょうか。だから相手には独自の感情があるとは思いもせずに自分の考えを押し付ける。自分の隣にいる女性の身体に、バリアーを感じることなく接近できる。これは、自分の身体の境界を超えて「支配圏」を持っているからではないでしょうか。


自身の個別の身体を超えたところに自分の権能が及ぶ、というのは、実はそれほど特別なことではありません。私たちは赤ん坊として生まれた時から、普通に恵まれた環境であれば、誰かが自分の快や便益のために仕えてくれるのを当たり前にして育っていきます。おなかがすけば泣き、おむつが濡れて不愉快ならばまた泣く。その泣き声を聞きつけて、あるいはその前に気配を察して、お乳を与えられおむつをきれいにしてもらう全能の存在が赤ん坊です。乳幼児期を過ぎれば、事情はだいぶ変わってきて、自分でしなくてはいけないことが増えてくるのだけれど、それでも、思春期になろうが成人しようが、食事の準備や身の回りの世話をしてくれる存在として母親が自分に仕えてくれる。男性なら、結婚し妻を得れば、そういう存在が一生にわたってそばにいることが当たり前になる。会社でも、ある程度の地位があったり基幹的な社員であれば、秘書やアシスタントという、必要なことを察し手足となって自分の仕事をサポートしてくれる存在がいる。そういう環境が当然のようにずっとあるならば、自己身体と外部を隔てる境界、つまり支配圏は、拡張していくのも不思議はなく、そばにいる妻や秘書が、あたかも自分の一部であるように錯覚することもできるのではないでしょうか。そして妻や秘書でなくとも、自分の周囲にいる、取り立てて気を遣う必要もない立場の女性が、自分の支配圏内にあると認知するとしても、それほどとんでもない錯覚とは言えないのではないでしょうか。


女性ももちろん、赤ん坊のときから世話され育っていくのは同じなのですが、思春期ともなれば、自らのリアルな身体の範囲すら侵害されがちな女性にとっては、自分の身体すら自分のものではない。このギャップは大きいのではないでしょうか。


ことばもまた、身体感覚を作っていきます。
社会学者の江原由美子さんは、言語とジェンダーの関係を論じる中村桃子さんの研究を引きつつ、ことばによって、社会的世界の見方に対する男女間格差ができると論じます。
英語ではheやman、human などのように、男性を表す言葉が同時に人間一般を表す言葉がありますが、日本語でも同じで、「少年」や「兄弟(きょうだい)」、「彼ら」のように男が人を代表することばは多くあり、また、それは単語レベルにはとどまりません。
こうした「人間=男観」に基づく文法規則や語彙体系が言語・文化に存在するということは、男女の社会的実践の構成に影響を与えると江原さんは論じます。このために男性は、自分の活動が社会的世界の中心的活動であることに疑問を持たない心的傾向をもち、自分がもっている「社会的世界の見方」を「他者にも当然受け入れられるべき社会的世界の見方」「客観的公的な社会的世界の見方」として受けとめやすくなり、他方女性は、「人間=男観」に基づく言語に取り囲まれることによって、「自分は別」と感じ、自分の「社会的世界の見方」を自分だけのもの、主観的なものと受けとめやすくなる、と(江原『ジェンダー秩序』p.176)。


性加害者やセクハラ男が濫用する「支配圏」は、こうした、男性が無意識的にも構築している「自分中心的世界観」の産物なのではないでしょうか?
もちろん、すべての男性が支配圏をもっているわけではなく、もしかすると女性にもそういう人はいるかもしれない。拘置所で自殺してしまった、自分をあるじとする疑似家族を拡大し続けた角田美代子被告などは、文字通りの支配圏を持っていたのかもしれません。


田房さんは、少女や女性たちにただ「痴漢に気をつけろ」と言うだけで、「性犯罪者のことを「異常者」「一生治らない病気」「性欲によるもの」と片付け、社会全体で無視し、代わりに間違った認識だけを広めているためにその実態を知る機会がない。つまりは性犯罪というものと性犯罪被害者に対してもマトモに向き合ってないということである。そして社会全体が「女性に対しての侮辱」に対して徹底的に鈍感なことが、どぶろっく流行を力強く支えている」と力強く批判されていますが、本当にその通りだと思います。
フェミニズムはこれまで、私たち女性が性的客体に留められているメカニズムを果敢に解明してきました。今求められているのは、田房さんがおっしゃるように、性暴力と性支配のリアリティに迫って、その解明を次の次元に進めていくことです。上述の私の「支配圏」の仮説が当たっているかどうかはまだわかりませんが、21世紀のフェミニズムのこのチャレンジにあなたも参加しませんか?

 

 

本の紹介

江原由美子『ジェンダー秩序』2001年勁草書房

 

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1995年の『装置としての性支配』をさらに発展させて書き下ろされた、性支配の解明に挑んだ書。「ジェンダー秩序」とは、江原さんによると、「男らしさ」「女らしさ」という意味でのジェンダーと、男女間の権力関係である「性支配」を、同時に産出していく社会的実践のパターンのこと(i)。私たちは通例、「男女差別」「女性差別」という表現を用いますが、この表現はとても不十分で正確さを欠きます。というのは、これらの表現からは、あたかも「「男」「女」という「ジェンダー化された主体」が最初にあって、その両者の間で「支配―被支配」の関係がうまれる」かのようですが、そうではなくて、「「男」「女」として「ジェンダー化」されること自体が、権力を内包している可能性がある」(25)のです。本書では、こうして「ジェンダーと性支配が同時的に形成され」ていくダイナミクスが実に周到に論じられています。 行為論や言語論、エスノメソドロジー、社会構築主義など多岐にわたる理論が駆使された江原フェミニズムの一つの到達点といえる本書ですが、それだけに、決して「とっつきやすい」本ではありません。でも、何かの問いにぶち当たった時、この本に帰れば考える道筋が与えられる、ジェンダー・フェミニズム研究のバイブルのような書です。  
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牟田和恵(むた・かずえ)

本業は大阪大学人間科学研究科教員、専門は社会学・ジェンダー論です。
女性と女性の活動をつなぐ情報サイトWAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク http://wan.or.jp/)の運営にもかかわっています。おもな著書に、『部長、その恋愛は、セクハラです!』集英社新書、『ジェンダー家族を超えて』新曜社、『実践するフェミニズム』岩波書店など。
ゼミや議論の際に学生に質問やコメントをうながすとき、「無茶振り」をするらしく(自分ではそう思ってないんですけど、、、)むちゃセンセーとあだ名がつきました。

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