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棚卸日記 Vol.19 生きてる

爪半月2023.08.29

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交通事故を起こした。

車がないと生活が成立しない田舎で暮らしていて、日常的に車に乗っている。
ここ何年も無事故無違反でゴールド免許だった。
主治医とも相談し、睡眠不足や体調不良の日は運転しないなど自分なりのリスク管理は心掛けていた。
それが今回、自分でもよくわからない理由でひどい物損事故を起こしてしまった。飲酒や居眠りや服薬はもちろんしていない。身バレが怖いので詳細は書かないが、近くの駐車場に車を寄せて警察を呼ぶ間、足が震えてしまい、しゃがみこんでアスファルトに手をつきながら電話をした。
駆け付けた警察に「どうして事故を起こしたんですか?」と聞かれ「どうして・・・?ですか・・・えー・・・っと、故意ではないので・・・どうしてなのかは・・・自分でもわからないです」と弱弱しく答えた。正直、声を出すのがやっとで、(どうしてこうなったんだろう)と私自身が一番強く自問しているところだった。どうして。
幸い、ドライブレコーダーのデータからも普段は安定走行と安全運転ができていたことが確認できたらしく、滞りなく事故処理は進んだ。ドライブレコーダーのデータがこんな使われ方をすることも今回初めて知った。

保険会社にも連絡した。車両保険を使うことで3等級ダウンとなり、向こう3年間で保険料が約10万円ほど値上がりするとのことだった。事故は誰にでも起き得るものだし、そのために予め保険に入っておくものではあるけど、今回はしつこく落ち込みを引き摺ってる。

 

大変なことをしてしまった、を反芻

数日後、ボコボコになった車をディーラーに運んだ。車には修理歴が残るらしく、リセールバリューはゼロになるとのことだった。もともと資産価値の高い車ではなかったし、長く乗って乗り潰す予定だったのでそれは構わないけど、まだ買い替えて間もないので悲しかったし、(大変なことをしてしまった)という感想がことあるごとに付き纏った。その都度、(大変なことにはなったけど、車だけで済んでよかった)と自己暗示を掛けたり、(ストーカーに殺されるよりはマシ)と過去の悲惨な出来事を引っ張り出してきて今ある悲劇を矮小化させる努力を試みたが、あまり意味はなく、落ち込み続けている。大変なことをしてしまった。
自動車保険のレンタカー特約に入っていたので30日間はレンタカーを借りることができたが、修理は30日以内で終わるかわからないとのことだった。
修理が長引く場合は車がない生活になる。田舎で育児する身としては死活問題だ。タクシーを呼んでも配車に1時間かかる地域だ。祈るような気持ちで修理完了の連絡を待ちつつ、万が一に備えて自費でレンタカーを借りる可能性も検討している。
その後カウンセリングを受け、「自分への信用がゼロになった」と話した。カウンセラーは、私がネガティブな自己評価を言い終えるまで根気強く傾聴し、心理教育をしてくれた。
強い悲しみや強いストレスが原因だったのか、再発防止のためにも事故の原因を探りたい気持ちがあったが、強い悲しみも強いストレスも平時から持っているものだった。今まで何年も安全運転できていたことの実績を考慮すれば、原因を特定することより今の混乱と衝撃を緩和させることの方が意味があるという判断のようだった。今後はより慎重な運転を心掛けたいと思う。

 

自己不信の時間に耐えるしかないのだが、

交通事故を起こしてるのに自信満々だったらそれこそ恐ろしい話なので、今の状況で落ち込むのはとても普通のことで、ある程度の自己不信はしばらくの期間受け容れざるを得ないのだと思う。ただ、ここで問題なのが、私は目の前で起きた問題以上に懸念を肥大化させてしまう点だ。交通事故とは無関係な、自分が過去から綿々と抱え続けている問題が芋づる式に総動員されがちになる。
自分でも予想できなかった行動を自分が取ってしまうとき、そして結果的にそれが誰かを傷付けたり、他者に迷惑を掛けてしまうとき、ひどく自分に裏切られた気持ちになる。
複雑性PTSDの最大の困難は他人を信じられなくなることにあるが、今回、そこに輪を掛けるように自分を信じられなくなったのは非常に苦しい経験だった。
自分にとって最も身近な存在である自分のことが信じられない。知らないうちに人に迷惑を掛けるかもしれない、知らないうちに人を傷付けるかもしれない。それが自分自身だということは絶望だった。離れることもできない、この先も死ぬまで付き合い続けなければならない自分という存在が最も信用ならない。
信用できない他人と同居することに耐え難い苦痛があるように、信用できない自分とこれから先も生きて行かなくてはならないのは耐え難いことだと感じた。家の中に不審者がいれば誰だって追い出したいと思うだろう。今の私は、自分の中にいる不審者に手を焼いている。自己受容を目指して地道に歩いてきたはずなのに、ふと気付くと振り出しに戻っている。「回復は直線的ではない」という慰めも今は焼け石に水だ。現実生活での失敗経験が加害恐怖に拍車を掛けている。

 

日常生活の継続はときに薬となりときに鞭となる

私の嘆きを辛抱強く傾聴してくれるカウンセラーと違い、日常生活は気持ちの回復など待ってはくれず、絶望する暇を与えてはくれない。ただ、今は忙しいことが幸いに思える。仕事の時間が来れば何事もなかったかのように明るく挨拶をして仕事に入る。子どもの友達が遊びに来ればお菓子を用意して歓待する。自分が幼少期に憧れた優しいお母さん像を全力で演じている。そうやって忙しなく巡る日常の中で、ふと自分だけの時間、「息をつく間」が出現すると、回復できないほど落ち込んでしまう。
疲れてるのに休めないことを嘆きたくなる気持ちもある一方で、用事がなくなった瞬間ネガティブな自動思考の濁流に飲まれてしまうコストを考えたら、今はできるだけ忙しい方が助かるとも思った。休憩時間がかえって毒になる自分を不幸だと思う。私は、よく働く自分のことを「頑張り屋さん」だと思っていたが、実際には悲しみや不安などの濃度が高まる停滞した時間に耐えるだけの堪え性が欠如した人間だったと気付いてまた落ち込んだ。

 

生活そのものが自傷的になる

私は自分の悲しみをコントロールしたいとき、より強い暴力を採用することで焦点をずらそうとする人間だ。そもそも悲嘆はコントロールできるものではないのに、まんじりともしない苦痛に持ち堪えられなくなって、別のより強い痛みで誤魔化そうとする。落ち込めば落ち込むほど過活動的になって、もしかしたら今原稿を書いているのもその一つかもしれない。原稿を公開したあとで後悔するかもしれない懸念が過らなくもないが、勢いに任せないと言葉が出てこなくなる人間なので今回はこのまま出すことにする。
この数日間は、より強い暴力を求めて会いたくない人に会ったり、他の人がやりたがらない仕事を率先して引き受けたり、限界まで予定を詰めて無理矢理忙しく過ごしていた。心が折れそうというか、もう複雑骨折してぐちゃぐちゃなんだからあと1、2本追加で折れても変わらんだろ、という感覚。じっとしてると悲しくて悲しくて部屋が水槽になってしまう。ウロウロしてるときは紛れてるけど、椅子に座ったり、少し頭が暇になると、脳味噌の中身が「悲しい」だけになってしまう。

外面的には何も問題のない社交的な人間を装っているが、私の胸には無数の虫がいる。身体の内外を無数の虫に這われる感覚に苛まれながら日常生活を継続する。いつも通りの育児をして、仕事の報告書をまとめて、後期の大学のスケジュールを組んでいる。

生きることの大変さにどれだけ眩暈を覚えても表面的には無事そのものという姿を維持してる。胸の痛みにはより強い痛みを上書きする。若い頃から変わってなくて、成長がないことにまた落ち込むけど、今さら別の誰かになれるわけでもないし、このまま生きてる。回復できない時期があることを認めることも回復の連続体の一部なんだと思うようにしてる。

だらだらと書いていたらあっという間に3000字を超えてしまった。

コラムなんだし、何のオチも教訓もない原稿もあっていいと思うので今回はこのまま出すことにする。そうだ、事故ったとき、駐車場をお借りした店の店員さんがすごく優しくて涙が出た。私もいつか誰かの事故現場に遭遇したらあんな態度を取れる人間になりたいと思う。

 

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爪半月

爪半月(そうはんげつ)

元『風俗嬢』
田舎で育児しながら通信制大学で社会保障を勉強中。

好きな言葉『人権』
嫌いな言葉『自己責任』
twitter @lunuladiary

 

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