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「マッドマックス 怒りのデスロード」には中年のオバチャンが出てこない

田房永子2015.08.03

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 「『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、フェミニズムの専門家に取材して作った映画らしい」と友人から聞いて、期待して映画館に来ていた私は、フュリオサの運転するウォータンクには当然いろんな世代の女がごちゃ混ぜに入ってると思っていた。女のひとりが「息が出来ないの」とフュリオサに助けを求めて車の床から顔を出した時も、「あの砦にいたすべての女がたくさん入ってるんだから、酸素も薄くなるだろうなあ」と思った。フュリオサはカッコよすぎてとてもじゃないけど自己投影できない。タンクの中にはきっと、ズングリムックリの女や東洋人っぽいメガネの女がいるはずだから、そいつに感情移入してスカッとしよう、という腹づもりだった。
 しかしタンクの中にいた女たちは、たったの5人・・・・・・。
 しかも白い羽衣みたいな布を身につけた女神のような美女だけ。ハイハイハイって感じだった。私の「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は一旦そこで終了した。
 「女」は、可愛くなくてもスタイルがよくなくても、幼い女・若い女というだけで性的対象として必要以上に関心を持たれ、周りが思う「若い女」として振る舞うよう促されたり強制されたり嫌がらせを受ける。しかしオバチャンになってしまえば、男からの汚らしい羨望すら受けることなく、突然“価値のないもの”として無視される。
 「マッドマックス 怒りのデス・ロード」には、中年のオバチャンが出てこない。フュリオサは中年に見えるがオバチャンではない。鉄馬おばあちゃん族の中に一人だけ中年がいたがすぐ死んだ。母乳を出す太った女たちは中年にも見えたが、フュリオサは彼女たちは助けない。「女が人間としての尊厳を取り返す話」なのに、若い美女(と、美しすぎる上に強すぎる中年)しか出てこない。ここでもやはり中年オバチャンは無視されるのである。
 結局、男が救いたい女しか救われない映画じゃないの・・・・・・とひとり『THE END』を迎えるも、映画はまだまだ続くので、仕方なくフュリオサに感情移入することにした。するとだんだん、自民党VSワーキングマザー&イクメンの話に見えてきた。子育てしながら仕事をする、という行為を実現しようとするママの状況や心情は、本当にあんな感じだからである。私は、あんな感じだった。
 子どもを生んで、尚且つ仕事をして税金を払う、という、これ以上ない健全な国民の“任務”を果たそうというだけなのに、条件に満たないと保育園に入れない(全国ではそうではない場所もあるが)。保育園に入れないということは仕事をやめたり長期で休まなければいけないということである。保育園に入るためには、「自分の仕事が本当に子どもを預けてまでやるほどの仕事なのか」を審査される。子どもの頃から憧れてやっとついた職業や、大好きでずっと続けていた仕事、やっと手に入れた地位、そんなものは関係なく、突然それを「本当に必要なのか」と他人に審査されるのである。妊娠中や産後の0歳育児の最中、気力も体力も限界、諦めて仕事をやめる決意をするママが続々と現われる。今まで続けてきた仕事を手放さなければいけないのかという不安、恐怖。「女だって今の時代、自分の仕事をするべき」と今まで応援してくれていた実の親から「子どもが生まれたんだから、お仕事やめれば」と当然のように言われる人もいる。そういったことを振り切って、保育園に入ることができても、他のママは保育園に入れなくて青ざめていたりする。そこでも自分の仕事は本当にやるべきことなのかと迫られるようで罪悪感でいっぱいになる。「労働は人間の義務」と教えられてきたのに、働くことを歓迎されない世界に突然放り投げられるのである。
 なのに男たちは子どもがいても今まで通り何も変わらずに働いている。自分の人生は激変しているのに、その横で味方であるはずの夫は今まで通りの生活を送っている。「基本的には俺は自分の仕事で手いっぱいだけど、何かあったら手伝うよ?」くらいのテンション。
 個人間の問題と捉えられがちだが、そもそもこの国のボスが、誰か一人が自分の人生を犠牲にしないと人間は育たない、という狂った考えを持っていて、それに沿った通念が社会全体を覆い尽くしているため、こんな事態になっている。
 お気に入りのスプレンディッドの体を乱暴に開ける医師を制止せずに自分の子孫が“完璧な脳と体を持った男児”であることを確認させるイモータン・ジョーは、女の人格や女体に興味があるように見えて実はその先の自分の男としての繁栄だけを重視する「家父長」を象徴している。私たちの暮らす世界にイモータン・ジョーはいないけれども、「立派な男が一人前になるには、母親や女たち(その男の姉妹など)が自分の人生を犠牲にして当たり前」という前提が土壌に染み込んでいる。そういう考えは単なる「一つの思想」であるはずなのに、大昔から土に染み込んでしまっているので、まるで「人間として生理的性質」みたいに捉えている人が多すぎて、戦いにもならない、というのが現実である。
 だからママが必死で自分の人間としての尊厳を取り返そう、働こう、と奮闘すると、思いも寄らないところから敵が現われ自分の大事なものを次々と破壊していく。完全に「マッドマックス 怒りのデス・ロード」である。
 フュリオサをワーキングマザーと考えると、マックスは夫。マックスに心があるか、話が通じるか、イクメンになってくれるか・・・・・・マックス次第でフュリオサの運命は大きく変わってしまう。
 マックス自身、シタデルという砦では、輸血袋としてしか扱われない。フュリオサや女たちのことはどうでもいいと思っていたけど、「自分が生きる道は、この女と助け合うしかない」と思ったから、渋々一緒に戦い始める。
 この場合「砦」は、「家事・育児は奥さんの仕事だぞ」「女は子どもが好きなんだから、苦じゃないんだよ」「お前はその分、たっぷり稼がないとな」と、子どもが生まれてもお前は変わらず仕事だけしていればいい、むしろ以前よりもっと野心を持って“前”に進め、周りに己の力を見せつけよ! という考えを持つ男の集団(会社、社会、自民党)である。
 「砦」は特定の男にとっては居心地がよい。そういう男は妻の不満など理解できるわけもなく、知らない間に家の中の家財道具一式と共に妻と子どもが姿を消す。
 しかしマックスのように自身も「砦」から脱出したいと思っている男は、フュリオサ(妻)と対峙することになる。
 母親の自覚がないだけのわがままに思える妻の主張、こっちだって仕事してるのに家事を分担しろとか理不尽としか思えない要求、に耳を傾けることができるかできないか、が大きなカギとなる。つまり「砦」の一味として妻を“育児マシーン”としてしか捉えないか、それとも妻に人間として同情し共感し「砦」と妻との生活を天秤にかけられるか、にかかっている。子どもを持つ女と男の大きな違いは、男には「砦」がある、ということである。妻と砦の板挟みになって苦しむのも男だが、男には選択肢があるとも言える。「砦」になんの未練もないマックスでも渋々だったんだから、「砦」にどっぷりの男にはそうそうの脅しでは話が通じることはない。
 働くママとその夫が同じくらい助け合わないと、やっていけない。大きな敵が次々と襲ってきて、自分に“生む機械”“育児マシーン”でいるように訴えかけてくる。横にいる男(夫)に説得を続け、最大の敵になる場合も考慮しながら慎重に戦いを進める。夫ともし助け合うことができなければ相手を切り捨てるしかない、それは同時に自分も切り捨てられる恐れがある、というギリギリ感。マッドな世界のフュリオサの戦いに、まったく違和感がなかった。
 映画の中に丸く切り取った背広の穴から出ている自分の生乳首を指で撫でながら戦ってるキモいオッサンの悪者が出てきたが、背広に穴は開けてなくても、乳首だけ出てるつもりで部下の女の子に話しかけてるマッドなオヤジはこの世にたくさんいる。
 そして、男同士の強い連帯軍団の落ちこぼれ、ニュークスもリアルだった。ネット上には「モテない男」を自称する人が、「ヒエラルキーの底辺にいる男のほうが、女よりも大変な思いをしている。フェミのみなさんは、本当に弱者のことを考えているなら僕らのことも視野に入れて活動して欲しいものです」みたいなことを言っているのを目にする。そういう人は「女は困っても売春できるじゃないか。男は出来ない(から大変!)」とかよく言ってたり、「女は結局、強い男、顔のいい男が好き。それが悪い。底辺の男とだって女が結婚して世話してくれれば丸く収まるのに」とか普通に言ったりする。私はいつもネット上で彼らのような人に辟易していたのけど、ニュークスという姿で映画の中に彼らが現われた時、とても興奮した。気持ちが通じ合えてうれしかったし、最後のほうのニュークスには涙が止まらなかった。私は、彼らを憎んでいるわけではなくて、わかり合えたらいいなと思っているし、仲間になれるという期待を持っている自分の心を知った。
 そうやって途中から「自民党VSママ&イクメン&童貞男子」のドキュメンタリーにしか見えなくなっていたので、フュリオサがイモータン・ジョーを倒したあたりからは逆にファンタジーに見えて気持ちが醒めていった。女の部下がオッサンのボスを葬るというのは現実にはあり得ない。私はあり得ないと思っているから目指してもいない。実際できたとしても結局はマックスが政権を握るのが現実だ。このラストで全くスカッともしない、ぜんぜん嬉しくもない自分、この世にどんだけ絶望してんだよ、と思った。
 だけど映画自体はとっても面白かった。時間と機会があれば、もう一度映画館で観たい。そう思いながら、帰路についた。しかし2~3日経つごとに、どうも腑に落ちない点がもくもくと湧いてきた。
 フュリオサは、あんな女か? ということである。
 フュリオサをワーキングマザーとして見るのとはまた別として、フュリオサのように喜び組的な地位から、実力(武力)を得たことによって妻という地位とは違う絶大な信頼を寄せられる地位に上り詰める女、というのがそもそも成立するのだろうか、というのがとても引っかかった。男のボスから絶大な信頼を寄せられ部下の男たちも絶対的に従う権力を持った女が、虐げられている女を救い出し人間としての尊厳を別の地で取り返そう、と思うのだろうか? 権力に安住するはずだ、ということではなく、女が、人間としての尊厳への憧れを残し女を救うことを胸に秘めたまま、男たちの信頼を得るという生活を送れるのだろうか、ということだ。その二つに引き裂かれることなく両立できるのだろうか? 砦にいる女たちの中では最高の地位にいるワイブスを説得し信用させ実行にまで移せるのだろうか?
 なぜそう思うのかと言うと、現実の世界では「女・子どもが人間として扱われていないと自覚しその尊厳を主張し救いたいと願っている女」は、ほぼ100%、男に嫌われているからである。逆に、男の中で認められ権力を持つ女は、虐げられている女たちに関心がなく、自分がその一員だと感じることがあるようには思えない。
 だから私にとって、「自民党VSママ」の話としては途中までしっくりくるのだが、「女VS男」の下克上の話という展開には、違和感があった。男から好かれかわいがられ、男の後輩からも慕われ、男の世界でそこそこ権力を持ちながら、女への人情も忘れず、女からの支持率もそこそこあって、逃げ出そうと呼びかけたらついていく女がいる女。そんな女、いるだろうか?
 政治家の女性たちは、男の味方か、男に嫌われてバカにされているか、女のための活動をしようとして政治家になったが男たちの慣習に巻き込まれすっかり意気消沈している人しか思い当たらない。有名人で「そんな女」を挙げろと言われたら、私には久本雅美くらいしか思いつかない。なんとなくなのだが、上沼恵美子に「一緒に逃げよう!」って言われても「ええ? なんであなたと?」と思うし、黒柳徹子に言われたら嬉しいけど頼りないな・・・大丈夫かな・・・と思う。和田アキ子はそんなこと言い出すこともないだろう。でも久本雅美なら背景に若い男の後輩たちがたくさんいるようだし頼もしく見える。騙されてもいっかな、どうせここにしても人間として扱われないし、楽しく明るく燃え尽きてみよっかな、と思うような気がした。
 別に私は久本雅美のファンというわけではないが、対談番組で「自分のことを嫌いな上司と働かなければならない時にどうする」と聞かれた久本が、「それつらいなあ、心折れそうになるなあ。でもまずは誠実に仕事する。相手の好き嫌いは仕方ないから、それに振り回されない自分になることが大事」と答えていたのを見て、久本の中にフュリオサを感じた。
 それに、白目を剥いてがに股になり、「よろちくびー!!!」とか絶叫してないと、男のボスを油断させることはできないんじゃないだろうか。

 そもそも、マックスがあんなに死ぬほどかっこいいのに、女が誰一人マックスにときめかないことに私は不満がある(スプレンディドはその気配が少ししたが)。男と女が旅するからってそんなことにはならない、っていうのがあの映画の醍醐味なのは分かる。
 だけど私は観ている間じゅう、マックスやべえ、マックスかっこいい、死ぬ、マジで、ヤバイ、いい! マックス見てたらなんかおかしくなる! なにこれ? いく! いっちゃう~~~~!!!! って感じだったから、「マックスに欲情する女がいない」という点も「中年女が無視されている」のと同じで、フェミ映画って言ってたから来たのに自己投影できねえじゃねえかよポイントの一つだった。
 暴走する車の先にくくりつけられても生きてるマックス、トカゲ一匹と母乳ちょっと飲んだだけでずっと強いマックス、とにかく自分が生きることだけが第一でいつでもトラウマに追われ、女を性的対象と見る余裕のないマックス、生きるために仕方なく協力するマックス、この先は塩しかないって知ってるマックス、かわいいコックさんの葉っぱみたいなクチビルのマックス(たまらん!)、地道に鉄の棒でガリガリするマックス、マックスです、マックスです、マックスです・・・・・・。私がフュリオサだったら、もっとなんていうか、欲情してる自分とも戦うと思う。そんな余裕ねえ状況だとしても、なんかそうなると思う。
 私は子どもを生む前、31歳くらいの時、夫がひどい熱を出してほんとに死ぬんじゃないかこの人、と怖くなった日があった。その時、自分の中に小さい炎が灯ったのを感じた。
 炎からは「精子」と聞こえた。「精子」「精子くれ」と、自分の腹の底が思っていた。
 夫が死んじゃうなら夫の遺伝子を体の中に入れておきたい、と思っている自分に驚いた。子どもが欲しいなんて思ってないのに、「なんかもったいない」って思った。精子まで死ぬのはもったいない。無理矢理乗っかって出してもらおうかなと思ったりした。
 男だけ「疲れマラ」という言葉を持っているが、女の私も非常事態には子孫を残しておきたいという能が湧くじゃないか、と思った。だから私がフュリオサだったら、マックスの精子欲しいなーって思う気がするんですよね。
 もしフュリオサという英雄が実在するなら、理想ではあんなふうに無表情で淡々としたカッコイイ女であってほしいが、実際は久本雅美みたいな女じゃないと、あの地位であの行動を成功させるのは無理なんじゃないかと思う。久本だったらマックスと旅してる間も「あんた、ええ男やんなー! どっから来たん?」とか言うと思うし、敵が来たらマジな目になってカッコイイし、何かあればすぐ泣く。そして精子をもらおうと夜は狙ってる。フュリオサが実在するとしたら、そんなオバチャンなんじゃないかと思う。それでもやっぱり女が一人で実行するのは無理があるから、柴田理恵的な補佐が必要になるだろう。よろちくびー!!とメガネのオバチャンのマッドマックスなんて誰も観ないからあり得ないのだが。
 マックスに欲望するオバチャンが出てこない、という点で不満がある映画なのだが、マックスに欲望するオバチャンが出てこないからこそ、こんなに大ヒットしているということも分かっている。実にマッドな皮肉である。

 そんで、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のパンフレットを読んでたらフュリオサ役のシャーリーズ・セロンはこの映画を撮影しながらなんと子育てをしていたという。「幼い息子が毎日熟睡してくれずずっと睡眠不足だった」と書いてあって仰天した。こんな映画と子育てを両立なんてそれが一番マッドだし、そんなマッドならいくらでもこの世にあふれて欲しい。
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田房永子(たぶさ・えいこ)

漫画家・ライター
1978年 東京都生まれ。漫画家。武蔵野美術大学短期大学部美術科卒。2000年漫画家デビュー。翌年第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。2005年からエロスポットに潜入するレポート漫画家として男性向けエロ本に多数連載を持つ。男性の望むエロへの違和感が爆発し、2010年より女性向け媒体で漫画や文章を描き始める。2012年に発行した、実母との戦いを描いた「母がしんどい」(KADOKAWA 中経出版)が反響を呼ぶ。著書に、誰も教えてくれなかった妊娠・出産・育児・産後の夫婦についてを描いた「ママだって、人間」(河出書房新社)がある。他にも、しんどい母を持つ人にインタビューする「うちの母ってヘンですか?」、呪いを抜いて自分を好きになる「呪詛抜きダイエット」、90年代の東京の女子校生活を描いた「青春☆ナインティーズ」等のコミックエッセイを連載中。

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