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べんとうこわい

2018.04.03

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 子どもが小学校に入学するんだけど、4月の3週目あたりまで給食がないので、弁当を持っていかなければならない。入学式までのあいだは、学童という子どもを預かってくれるところに通う。そこで食べる弁当も作らなきゃいけない。

 子どもが生まれてから6年、弁当を作る機会は5回くらいしかなかった。毎回、1週間前くらいから「今から買っておくもの(なんか弁当便利グッズみたいなやつ)、前日に買うもの(果物とか)」を頭の中で唱え、当日は茹でたり詰めたりするのに2時間はかかるのでものすごい早起きした。

 急に毎日弁当をつくる生活が始まることで、保育園のママたちは「大変だね、やだね、どうしよう」と言ってて、私も「どうしよう、2時間かかるんだよね」と言ったらビックリされた。

 「弁当つくるのがすごく苦手なんだ」と言うと、弁当作りに慣れている人がいろいろ教えてくれる。下準備の仕方(前の日の夕飯の時にブロッコリーなど茹でておいて冷蔵庫に入れておけば詰めるだけだからラクだよ)や、弁当作りの基礎(ごはんをまず詰める、次にメインのおかずを詰める、あとのおかずは2種類でよくて、空いてるところにそれを入れるだけ)を教えてくれる人もいた。子どもはおかずがそんなに多くなくていいそうだ。あと、メインだけを替えればいい。

 夫の実家に行った際、姑に一度、手作り弁当をもらったことがあった。おにぎりと卵焼きとたくあんだけの簡素なものだったけど、異様に美味しかった。夫は「子どもの頃、母親が作る弁当は彩りグッズを使っててキレイすぎたから、からかわれて恥ずかしかった」と言う。そして「うちの弁当はいつも冷凍食品が入ってたからキレイだった。弁当というのは、料理とは違う技術がいるものだ。冷凍食品を使うのもその技術の一つだ」というようなことを言っていた。私が弁当についてぼやくと、「冷凍食品を使えば良い」と夫はいつも言う。
 私はどうしても、弁当づくりは夫にやってもらうんじゃなくて自分でやりたい、というのがなぜかあって、さらに「冷凍食品」というものに未だ、謎の抵抗を感じていた。

 学童初登校までのあいだ、いろんな人から弁当レクチャーを受けたけど、みんなの言ってることに共通しているのは、「適当でいい」「ラクしていい」っていうこと。それが癒やしの保湿剤みたいに私の体に染みてきて、初日は気張らず、イシイのおべんとくんミートボールに全てを託すことができた。

 子どもと一緒に選んで買ったボンボンリボンのお弁当箱に、おむすび山を混ぜてマイメロディの形に切り取られた海苔(スーパーで売ってる)を貼って専用のカラフルホイルでつつんだおにぎりを入れた。湯煎したイシイのおべんとくんミートボールの横には「自然解凍でおいしい!ほうれん草のおかず3種」の中の一つを凍ったまま置く。空いた隙間に、ミニトマトと茹でたブロッコリーを詰めた。ボンボンリボンの小さいタッパーには、半分うさぎ(小さいうさぎ型に切ったリンゴ。過去に切り方を検索)を3つと、スーパーの冷凍食品コーナーでうちの子どもが「これ食べたい」と言ってので買っておいたスイートポテトを入れる。それらをボンボンリボンの箸ケースと共に、マイメロディのランチ巾着袋にセット。
 弁当が完成した。30分もかからなかったことに感動した。
 これでいい。明日から2週間、毎日の弁当をとりあえずは乗り切れそう。

 作りながら、そして作り終わったあと、やっぱり、自分の母が作った弁当のトラウマが今の自分の弁当づくりにものすごく影響してると分かった。

 小5の遠足。お昼の時間になり、広げたレジャーシートに座る。買い換えていないためスヌーピーのプリントがハゲた弁当箱をひざに乗せ、蓋を開ける、その時の衝撃。中身は「弁当」ではなく、灰色の汁の中に浮かぶ灰色の卵焼きらしきものとぐちゃぐちゃに細くなったアルミホイル。一瞬、まぶたがめいっぱい開ききり、心臓がギュッとすごい力で縮み上がる。クラスメイトに見られないように蓋を閉じる。再び蓋を開けて食べる気にはならず、食べ終わったフリをしてお昼が終わるのを待った。水筒の中身はいつも水だから、みんなが楽しそうに話している「どんな飲み物を持って来たか」のトークには入らない。

 私の母は、「弁当」を作る技術が一切なかった。髪の毛が入っていることも多かった。お母さんが作ってくれたお弁当なのに、美味しくないし開けたくない。母からしたら、作る苦労を知らないから簡単に注文しているように見えただろう「キレイなお弁当にしてくれ!水筒に水を入れないで!」という涙の訴えは、実はとてつもない罪悪感にまみれた後のものだった。

 あれだけ「普通のお弁当にして」と言っておいたのに、弁当の中身は前よりひどい。そういうことがずっと続いた。うちは経済的にも余裕があるほうだったし、弁当は年に1回2回くらいだったのに。

 小5の私は「受験なんかしたくない、塾に通いたくない、放課後は遊びたいしテレビを見たり漫画を読みたい、通うのは公立中学校でいい」とハッキリ思っていた。それを母に向かって言葉で主張する力も持っていた。だけど私の言い分は一切無視で、脅し(母の言うことを聞かないと大変なことが起こる等)や騙し(「行かなくていいから。今日これから行くところは塾じゃないから」と言いつつ外出先が塾、等)を駆使して、母は中学受験の塾に私を通わせた。
 「どうして中学受験をしなければならないのか」と聞いても納得する理由も教えてくれず、ただ「あなたは子どもだから何も分からない。黙ってお母さんの言う通りにすればいい」としか言わない。納得ができないので泣き叫ぶと、怒鳴り散らされつかみかかったり家から出て行けと言われそしてそれと同じくらいオイオイと泣いて私に中学受験をするよう母は懇願し続けた。小6の時にはもう抵抗するのをやめてあきらめた。今思っても、異常だと思う。

 私立中学は給食がない。弁当だった。母の弁当は相変わらずというより、弁当づくりが毎日になったのでさらにグチャグチャは激化した。女子校のお昼の教室の中で、弁当を開けて食べることができない。私は家で「髪の毛が入らないように三角巾をしろ! 普通の、崩れてないお弁当にしろ!」と泣き叫んだ。私は給食がある公立中学校でよかったのに、お前が私立私立言うから入ってやったんだ、弁当くらいまともなものを作れ! と思っていた。母はニヤニヤして「ハイハイ」と言う。改善されないまま時は過ぎ、2ヶ月くらいで自分で作って持っていくようになったが、自分で作る弁当と言っても母のと同じくらいグチャグチャで、結局そのあとの5年以上は学食とパンで過ごした。

 今、書いていて、あの頃の虚しさが、体を覆い尽くした。
 この虚しさは、「子どもの弁当づくり」のたびに、私の心に出てきていたんだと思う。あの頃、強く強く胸に刻んだ「私が母親になったら、子どもには絶対にきちんとした弁当をつくってあげるんだ」という誓いが、今の私の弁当づくりの手を止める。「完璧な弁当にしなければ」「絶対に失敗できない」「あの子が蓋を開けた時、グチャグチャになってたらどうしよう」こわくて、スピーディーにつくることができない。弁当を作ることが苦手なんじゃない。私は、弁当をつくるのがこわかったんだ、だから2時間もかかってたんだ。やっと分かった。

 弁当にフルーツを入れるという概念が私にはなくて、つい忘れてしまうことがあった。それも、母の弁当にはフルーツが入っていなかったし、入っている時はラップとアルミで包んであって弁当箱の上に乗っているので、べちゃべちゃになっていて、いつも開けずに食べなかったから、記憶になかった。それから母は一切、冷凍食品を使わない人だった。

 単純に私は、見た目がまともで食べやすい手作り弁当、というものを食べる経験が人より少ないんだと思う。そういうことは、自分の弁当作りに関係がないと思ってたけど、意外とすごく関係があるんだと思う。

 たぶんこれは、「私の弁当は大丈夫」と思えれば、解消されることだと思う。今回は毎日連続で作らなきゃいけないから、いい機会だと思う。

 私が、娘に、普通の弁当を持たせる。娘は何も考えずにそれを食べる。たまに、「これは入れないでほしい」とか言われたりして、その意見を次の弁当に反映させる。蓋を開けた時、「お母さんが私の言うことをちゃんと聞いてくれたな」ということを感じることができる。なんて素晴らしいことなんだろう。涙が出てくる。娘のリクエストに応えられるくらい自分の心に余裕があること、そして自分の言うことをしっかり聞いてくれるお母さんを信頼できることって、本当にすごいことだと思う。

 私は母と、それができなかった。そんな私が、娘と、これからそれがちゃんとできるかどうかは分からない。だけど、弁当づくりが怖い自分を励ましながら、とりあえずは「見た目がまともで食べやすい」を優先した弁当を、2週間つくってみようと思う。

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