花束の贈呈も済んだことだし、一緒に会食の場まで行くのかと思ったが、そうではなかった。
母と恵美子さんはお互いに、首尾は上々とばかりににっこりと目くばせをし合い、恵美子さんが頷くと母は「結納は、女性側が先に着席して男性側を待つものですからねぇ」というようなことを言った。恵美子さんとお嬢さんは、うんうん、と頷いている。そういうことになっているらしい。我々は「では後ほど」等と挨拶を交わして一旦別れ、案内された個室で大人しく座して待った。
今日に至るまで、恵美子さんとうちの母は綿密な打ち合わせとシミュレーションを繰り返している。結納の流れも、役割分担も、結納金の金額も、そして結納返しの品も。
例えば、進行役ひとつ取っても、決めるのに何十分も電話で話し込んでいたらしい。本来、進行は男性側の父親が担うものとされているようだが、恵美子さんは娘婿には任せられないと判断したようで、事前に電話で「仕郎の父親、三郎はそういったことに不慣れでございまして、ミナトちゃんのお父様にお願いできませんでしょうか」という打診があったそうだ。何故か女性側の父親が進行役、ということになっていた。
のべ何時間恵美子さんと母が電話で話したのか、想像すると何とも言い難い気持ちになった。母に関して言えば、打ち合わせが回数を重ねるにつれ私に恵美子さんの愚痴をこぼすようになっていったので、より一層何とも言い難い気持ちは深まった。
「話が長いのよ!」
そう、私に怒鳴られても、どうにもならない。
テーブルの上の絵皿を眺めていると、母がピリピリした口調で父に釘を刺していた。
「ちゃんとやってくださいよ、あなた」
「幾久しく」父は口上の一部を映画の吹き替えのような口調で言い、「あー、幾久しくナントカカントカだろ」と誤魔化した。
「それはお返事で、あちらのお父様の代わりに進行役も『これより結納の儀をとり行わせていただきます』って、もう、あなた、ちゃんとやってくださいよ!」
「大丈夫大丈夫」
座っている順は、私、父、母、弟である。絵皿から顔をあげて父の方を見ると、父もこちらを見てにやりと笑った。
「俺とミナトは本番に強い方だから大丈夫だよ、なぁミナト」
「はは……」
私は母を刺激しないよう、曖昧に笑って返した。
恵美子さん率いる山田仕郎ご一行は、定刻からぴったり5分後に現れた。廊下で遭遇した時には姿が見えなかった向こうの父親と妹も揃っていた。
直前まで結納と全然関係ない話をしていたせいで、こちら側はリラックスムードだったが、山田仕郎ご一行は緊張の面持ちである。何だか、進路の懸かった三者面談に入室してくる親子のようにも見えたし、山田仕郎は何となく憮然とした面持ちなので、三者面談と言うよりは呼び出しをくらった親子のようでもあった。恐らく、花束の渡し方で叱られたのだろう。
全員が着席し恵美子さんが頷くとすぐ、父が口を開いた。
「では、皆様お揃いですので、これより結納の儀をとり行わせていただきます」
父がこういう時に発する声は、何と言うか張りが合ってとてもいい。私は安心して、次に発声する筈の三郎さんの方を見た。しかし三郎さんは何も言わない。代わりに、恵美子さんがハンドバッグにゴソゴソと手を入れて何かを取り出し、テーブルの下で隣のお嬢さんに渡した。お嬢さんはそのまま隣の三郎さんに渡そうとして上手くいかず、諦めてテーブルの上に出した。三郎さんが何故か苛ついた様子で包みを受け取る。現れたものは袱紗と小さな紙の切れ端であった。
三郎さんは紙の切れ端を隠す様子もなく、咳払いをした後で「結納の品でございます。幾久しくお納めください」と読み上げ、素早く袱紗をほどいたお嬢さんが黒々とした文字で『結納金』と書かれた金封をサッと差し出した。
中身は百万円一束である。
何故わかるのかって、それは、私が数日前に恵美子さんから出金伝票を預り、私が自分で届けたからである。
父はそれを受け取り、「結構なお品をありがとうございます。幾久しくお受けいたします」とにこやかに言った。なお、協議の末、のしアワビやらスルメやら、干したコンブやらの結納品は全て省略されることとなっている。
結納返しもこの場で贈ることになっており、王道の腕時計が同様の手順を踏んで贈られた。
全ての贈答が済むとお嬢さんが小さな声で「読んでください!」と言い、三郎さんが「無事結納をお納めすることができました」と読み上げ父が「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」と返す。
以上で、結納の儀はおしまいであった。
何一つ難しいことも緊張することもない気がしたが、山田仕郎サイドの緊張感を思うと、進行役を父にしておいたのは英断だったかも知れないな、と思った。
儀式的なことが済んでしまうと食事が始まり、恵美子さんと母によって今後のスケジュールが次々と組まれていった。
まずは、これからひと月以内に結婚式場を決めることになった。母と恵美子さんの認識では式場は半年先の予定まで埋まっているものらしいので、実際の式は一年以内に挙げることが目標とされた。
また、山田仕郎が現在住んでいる、職場の病院から徒歩5分の距離にあるマンションをどうするかは恵美子さんと母と私で一度物件を見に行き、決めるそうだ。
「寝室と、ダイニング兼キッチンなのよね」と恵美子さんが言い、「今後のことを考えたら、もっと広いところが良いと思うのよ」と続ける。1DKだろうか。
「賃貸なんですか?」と私が何気なく聞くと、お嬢さんが胸を張って「仕郎はね、一括で買ったのよ!」と教えてくれた。
他人の金銭感覚はよくわからないが、1DKのマンションを買ってしまったということは、山田仕郎はその時点で結婚を諦めていたのではないだろうかという予感がした。
ちなみに、山田仕郎はわれ関せずといった様子で一言も発することなく、ゆっくりと箸と口を動かし続けている。自分名義の不動産がもしかしたら売却されてしまうかも知れないというのに、こんなに食事に集中していて大丈夫なのか。加えて、隣の三郎氏は自分の息子が購入した不動産の情報を殆ど知らないらしく、曖昧な笑顔だ。
あ~それにしても、不動産売買と保険契約のチャンスだな~と思ったが、流石に口には出せない。
私が脳内で関連会社の不動産販売に紹介した場合の手数料収入やら何やらを皮算用していると、唐突に恵美子さんが「そう言えば、ミナトちゃんには一度泊まりに来てもらわないとねぇ」と言った。
何が「そう言えば」なのかわからないが、母が賛同し、お嬢さんが頷き、あれよあれよと言う間に次の週末のお泊りの予定が決まってしまった。
「仕郎も当直の予定は入っていませんから、安心してくださいね」とお嬢さんが弾んだ声で言うので、山田仕郎はいつもの週末のように実家に戻っているのだろう。そこに私が泊まりに行く。
山田仕郎は自分の名前が呼ばれた瞬間だけ少し顔を上げたが、何の実感もこもらない表情で食事を続けていた。