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配偶者応答セヨ 第五十六回「駆け込み寺、行員相談室」

菊池ミナト2019.10.15

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支店長が発した「赤ちゃんプレイ」という単語はそれなりの衝撃をもって受け止められたようで、聞こえる範囲にいた人間全員が、一斉に笑った。

笑い声が上がった範囲で、どのあたりまでこの会話が聞こえているのかがわかった。我々のテーブルだけではなく、両隣の半分くらいと、あとなぜか対岸のテーブルの人間も、耳だけは支店長の発言に傾けているようだった。支店長の声はよく通るので、「赤ちゃんプレイ」だけが支店長の声で突然聞こえてきて、面白くなって笑ったのかもしれない。「うんち」と聞いただけで笑う幼児みたいだ。

多くの幼児は「うんち」という言葉の響きだけで笑うそうだけれど、排泄物そのものは何も面白い存在じゃない。同様に、私と配偶者の性行為に「赤ちゃんプレイ」があったとして、私は当事者だから何も面白くない。ただひたすらに不快だ。もしも今ここで、私が先ほどまでアクをすくっていた鍋をやおら頭からかぶり、抗議の大やけどをして救急車で運ばれて行ったら、少なくともこの場にいた人は永遠に「赤ちゃんプレイ」などという単語は発せなくなるだろうな、と一瞬想像すると少し面白かった。そうして、まわりとは全然違う理由で私も笑い声が出た。

「おっ、なんだその笑いは~?」
営業スマイルを浮かべた私からさらに笑い声が出たので、代理がニヤニヤしながら指摘を入れてくる。こんなくだらないことのために、そしてそれを教育し導いてやるために、荒っぽく自分を犠牲にする必要なんてない。
「そういうのは『ない』ですね」
「ないのか。ドクターは『ふつう』か」
支店長が笑いながらそう言うので、私は「それはわかりません」と言い、上機嫌でまだ何か聞きたそうにしている支店長に「何にもないんで、知らないんです」と言った。「なんにもない?」復唱した支店長は言いながら意味を理解したらしく、「へえー!」と目をギョロギョロさせた。

「なんにもないって、ホントに何にもないのォ?」
「何にもないですよ」
「ご主人、まだ三十代だよなぁ」
「配偶者は、ええと、ギリギリ三十代ですね」

たしかに、干支一回りとまではいかないが、それなりに離れている。どうでもいいことだったが、私は配偶者の年齢を即答できないことに気づいた。

「結婚式のあと直帰だった?」
「いや、一泊して帰りました」
「じゃあその、なに、ご主人の、スッポンポンも見たことがない、と」
スッポンポンって。
私が「何もわかりませんね」と答えると、支店長は笑うのをやめて「う~ん」と唸り始めた。
「問題だろそりゃ」
「いやー、僕だったら考えられないですね」

私と支店長の一問一答を見守っていたギャラリーの代理や後輩たちは口々に感想を述べたが、私は反応する義務はないな、と思ったので黙っていた。私が黙り、支店長も笑うのをやめてしまったので、全員が何となく気まずさを感じているようだった。

抗議のためにアツアツの鍋を頭からかぶらなくても、じゅうぶん後味の悪い感じになったな、という確かな手ごたえはあったけれど、何が正解だったのかよくわからなかった。それに、もしも「赤ちゃんプレイ」があったとして、私が「そうなんですよぉ、哺乳瓶を買いました!」とか言ったらどうなっていたのだろう。たぶん、それはそれで気まずい空気になったんじゃないのか。それなら、正解は何だったんだろう。「もー、支店長、そういう発言はよくないですよぉ」などと甘ったるい声で言えばよかったのか。そんなふうに、こっちにすべてを任せるような質問を後先考えずに投げつけられても困る。

私はふと、山田仕郎に何と呼べばいいか尋ねた際に「一任します」と言われたことを思い出して、状況は全然違うけれど、ぼんやりと似たようなものを感じた。
考えていたのは短い時間だったので、まわりの男たちはまだ「医者って性欲ないのかなぁ」「毎日診察で裸見てるからですかね」と好き勝手なことをしゃべっている。銀行員だって毎日お金触ってるけれど、みんなそれとは関係なくお金がほしい。いや、お金がほしい気持ちと性欲は別だわ、関係ないな、などとまとまりのないことを考えていた。

と、視界の端からビール瓶を持った同期のつばさちゃんが現れた。
つばさちゃんはショートボブの頭をふわふわさせたまま毅然として微笑み、支店長に「ここ全部、『行員相談室』レベルですよぉ!」と言って立ったまま男たちのグラスにビールを注いだ。

行員相談室というのは、行員がなんらかのハラスメントを感じた時の駆け込み寺だ。「あらゆるハラスメントを報告する窓口で、誰が報告しても報告者のプライバシーは完璧に守られます」ということになっている。「セクハラを受けた」でも「セクハラを受けている人を見た」でも受け付けてもらえる。
実際のところ、行員相談室がどの程度の力を持っているのかは知らなかったが、つばさちゃんの一言に皆ハッとしたようで、取りつくろうように「ハハ」と笑った。小学生の時、クラスで「先生に言いつけるよ!」と言って牽制するのと似たような感じなのかもしれなかった。

支店長は支店長で、注がれたビールにちょっと口をつけると「いや、真面目にね。真面目に考えたんだけど」とつばさちゃんに言い、私のほうを見て「ご主人は菊池ちゃんがかわいくてしょうがないんだろうなぁ、だから大事にしてるんだよ」と言った。私は再び鍋を頭からかぶって抗議のやけどを負う自分を想像し、やけどじゃなくてつばさちゃんからビール瓶をもらってそれをかぶってもいいかもしれないな、と思った。けれど、思うにとどめた。ただ、支店長が状況から判断した結論、絶対にそれだけはない。断じてそうじゃない。

「私にはわかりません」と言うと、支店長は納得がいかないというか理解ができないというか、腑に落ちない、というような顔をしていた。
「?」
その後ほどなくして宴会はおひらきになった。

壁に重ねられたハンガーを片端から取っていき、かかっていたコートを目についた順に配っているとつばさちゃんが寄ってきてバフバフとハンガーからコートをはがし始めた。私もつばさちゃんも、この役目に慣れすぎていて、ほとんどのコートが誰のものか、だいたいわかるのだった。
「さっきは助かっちゃった」
「行員相談室?」
「そう」
「いいんだよ、あんなの」
いつも、会社で飲み会があった帰りはお花ちゃんが仕事をしているコンビニに寄って、その日あったことをひととおりしゃべってから帰っている。

でも、今日のこのことはお花ちゃんに話すのはダメな気がした。
仮に話すとして、なんて切り出せはいいのかわからなかった。
私が今までの一連の赤ちゃんプレイ問答について、じゃあ結局どう答えればよかったんだよ、という気持ちになったように、お花ちゃんにこのことを包み隠さずしゃべったとして、どんな返事を期待しているんだろう。
なんというか、コメントが返ってくるのを期待すること自体がマナー違反のような気がした。

私はつばさちゃんとふたりでコートを配って配って配りまくり、お花ちゃんには「酔っぱらって電車乗っちゃった、ごめんね」とメールを送ってそのまま帰宅した。

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菊池ミナト(きくち・みなと)

主婦
リーマンショック前の好景気に乗って金融業界大手に滑り込んだアラサー。
営業中、顧客に日本刀(模造)で威嚇された過去を持つ。
中堅になったところで、会社に申し訳ないと思いつつ退社。(結婚に伴う)
現在は配偶者と共に暮らし三度三度のごはんを作る日々。
フクロウかミミズクが飼いたい。 

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