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「“セクシュアルハラスメント”を流行語にした女たち」イベントレポート

ラブピスタッフ2018.01.16

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性被害について語り、性暴力被害者が連帯する"Me too"の世界的なアクションが日本にも広がった昨年末。

性被害を語る上でも、問題を明るみにする上でも、「セクシュアルハラスメント」という言葉はいまやすっかり前提になっています。このセクシュアルハラスメントという言葉、日本で認知されるようになったのはおよそ30年前のこと。その背景に、実は、多くの女性たちの活躍と尽力があったことをご存知でしょうか?

2017年最後のラブピワークショップのゲストスピーカーは、「働くことと性差別を考える 三多摩の会」メンバー、丹羽雅代さんと野村羊子さん。

おふたりは、「セクシュアルハラスメント」という言葉を1989年の流行語大賞にした、影の立役者でもあります。
「三多摩の会」の面々が「セクシュアルハラスメント」をどのように流行語大賞にしたのかーー当時の活動についてお話を伺いました!

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★「働くことと性差別を考える 三多摩の会」発足のきっかけ
「働くことと性差別を考える 三多摩の会」の発足は1983年。当時は優生保護法「改悪」が議論されていて、女性の意思で中絶ができなくなる可能性が高まっていた時期。丹羽さんは、各市町村へ意見書を提出したり学習会を開催するなど、草の根的なアクションを開始。世論も徐々に変わり、優生保護法改正草案は見送られることに。が、活動はここで終わりません。

この時に集まった仲間とともに今度は「働くことと性差別を考える
三多摩の会」を発足。男女雇用機会均等法が、女性の労働問題を根本的に改善しないことを訴える取り組みを開始しました。

時期を同じくして起きたのが「西船橋事件」。
1986年1月、総武線西船橋駅のホームで泥酔した男性から執拗につきまとわれた女性が、男性を回避しようとしたはずみで男性がホームに転落。転落した男性が電車に轢かれて死亡した事件は、女性に対して「やり過ぎ」という非難が集中しました。

「彼女はわざとやったわけではありませんし、助けを求めていたのに誰も助けてくれなかった。男性が亡くなったのは気の毒ですが、女性に対してやり過ぎと言えるでしょうか?『彼女は私だったかもしれない』ーーそれが、女の運動のスタート地点なんです」と丹羽さんは振り返ります。

さっそく、西船橋事件の支援活動も開始した三多摩の会。
集会や取材対応を重ねて、少しずつ世論の流れを変えていきました。その結果、当初刑がつくのではないかと目されていた女性は無罪に。三多摩の会初の裁判支援は見事勝利を収めました。

しかし、さらに翌年にも悲惨な事件が続きます。池袋のラブホテルで男性が死亡した「池袋事件」。客の男性から、ビデオ撮影の強要や激しい罵倒、ナイフを使った暴力を受けたホテトル嬢の女性が、男性から奪ったナイフで男性を刺した結果、男性が死亡したこの事件は、一審判決で、女性の過剰防衛として殺人罪が下されたのです。

丹羽「風俗で働く女性は死ぬリスクもある、という判決。一審の際はあまり注目されていない事件でしたが、判決があまりにもひどいということで、支援活動に取り組みました。
私たちは絶対に、被告の女性が〝殺した〟という言葉使いません。あの状況では彼女が殺される可能性も高かった。だから彼女は殺したわけじゃないんです」

★初めて出会った「セクシュアルハラスメント」という言葉
数々の女性差別問題に取り組んできた三多摩の会。これらの活動は、やがて、セクシュアルハラスメントという言葉を広めることにも繋がっていきます。

1989年、三多摩の会メンバーの1人が渡米した折、サンフランシスコの本屋で購入した一冊の本の中で「セクシュアルハラスメント」という言葉に出会ったのです。

当時はハラスメントという言葉が、日本にはありませんでした。しかし、この本に書いてあることは、まさに私たちが受けてきたことではないかーー。

野村「持ち帰えられた本をもとに、セクシュアルハラスメントをどう訳すか、というところから着手しました」

丹羽 「最初は『性的嫌がらせ』と訳していたんです。でも、アメリカに住む友人がハラスメントというのは崖っぷちに立たされていて後がない状態のことで、『嫌がらせ』なんてレベルじゃないと教えてくれたんです。
ハラスメントという言葉そのものを日本で広めなければいけないのだと思いました」

そこで思いついたのが、セクシュアルハラスメントの実態を明らかにするためのアンケート調査。

丹羽「はじめにメンバー内で、それぞれ受けてきたセクシュアルハラスメントを思い出しながら、質問を設定しました。
『あなたはこういう被害に遭ったことがありますか?』と具体的に質問することで、セクシュアルハラスメントの実体が浮き彫りになるのではないかと考えたのです」

★1万人アンケート作成までの道のり
野村「自分がどんな被害に遭ってきたかか思い出すのは、アンケート作成のためではありましたが、辛い作業でした」

アンケートは完成までに半年を費やし、最終的にB4で3枚半、99問のボリュームに及びます。

丹羽「当時働く女性は全国で300万人。それなら、このアンケートに答えてくれる人は一万人ぐらいいるだろうと、根拠なくマスコミに宣言しちゃったんです(笑)」

こうして、一万人の女性にセクシュアルハラスメントの調査を取る「一万人アンケート」が作られました。
反響は予想以上に大きく、各地の女性団体を通しての配布や、メディアを通してアンケートを知った女性たちから回答が続々と寄せられはじめます。

野村「 毎日毎日、何百という返信が私書箱に届く。回収するだけでも大変でした。それを、ひとつ、ひとつ読んでいく。
書かれている内容を1人きりで受け止めるのは辛いので、1人では読まないということをメンバー内で決めました。
暑い夏に、アンケート用に借りたアパートで、メンバー同士励ましあいながらアンケートを感じ取っていきました」

中には60代の人が10代のときに受けた被害を語っているアンケートもありました。

野村「セクシュアルハラスメントで受けた傷は、時間が経てば癒やせるものではない。そんなこと忘れてしまいなよ、なんて人から言われても忘れられないものなんですよね」

★1万人アンケートの影響
アンケートの存在は、やがて遠く離れた福岡の女性の耳にも入ります。
その女性は、日本で初めてセクシュアルハラスメントを争点にした「福岡セクシュアル・ハラスメント裁判」の原告。

福岡セクシュアルハラスメント裁判は、1989年8月、福岡県の出版社に勤務していた女性が上司の男性を相手取り、「セクシュアルハラスメント」を起訴理由に裁判を起こした日本で最初の裁判として注目を集めていました。

原告の女性から連絡を受けた「三多摩の会」は。裁判支援のため、一万人アンケートの最終締切を公判に合わせることに。
世間からの注目も集まるなか、被告側が勝利し、大々的に報道されることになります。こうして、セクシャルハラスメントという言葉が一気に認知されるようになり、1989年、「セクシュアルハラスメント」は、「イカ天」とともに、その年の流行語大賞になったのです。

アンケートの調査はここで終了しますが、三多摩の会の活動は、セクシュアルハラスメント相談電話窓口の開設や、DVについてのアンケート調査へとその後繋がります。

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80年代に三多摩の会がやってきた活動は、どれもが法律や裁判にも影響を及ぼし、後を生きる私たちの道を整えてくれた大きなもの。
セクシュアルハラスメントという言葉を獲得出来たおかげで、今日のように問題が明るみになるーー「現在」だけを切り取って見ると、女性差別を巡る問題の変わらなさばかりに目が行き挫けそうになりますが、一方で、問題が問題として浮き彫りになったのは「過去」の女性たちの活動があったからこその変化であることがわかります。

過去のことは終わったことではなく、現在に続いているということが実感できる丹羽さん・野村さんのお話は本当に頭の下がる思い。歴史を知ることは、現在を照射するために大切なのだと改めて思いました。

さて、次回のイベントは1月26日(金) 18:00開催「Enjoy sex and freedom!ラブピで成人式!」!現在ご予約受付中、スタッフ一同皆様のご参加心よりお待ちしております!

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