キムスヒョンが除隊した。うれしいうれしいうれしいうれしいヤバい。こんなに超グローバル大スターになってしまう前にも、地元中野サンプラザでのファンミーティングで涙を流して感動を表してくれた永遠の恋人だ。入隊中に別の王子様「秘密の扉」「金子文子と朴烈」等のイジェフン様に浮気したものの、これで復帰作を楽しみにしながら過去作品を見返せる。カメオ出演した「怪しい彼女(2014)」もまた見たい。そして今回は、「怪しい彼女」の主演女優シムウンギョンさんの最新作「新聞記者(2019)」と、同じプロデューサーによる「かぞくのくに(2012)」だ。
いずれも韓国・日本の俳優・スタッフのクロスオーバーが活かされた邦画だ。最近この連載で数回にわたって、昨今の日本映画は元気がない的なことを書いてしまった。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。この二作品観てなかったんです。2012年キネ旬1位を観ずにのうのうと生きた筆者の怠慢でした。やはり昨年1位の「沖縄スパイ戦史」も先日やっとミニシアターで観たが、凄まじかった。邦画、観る努力さえすれば、素晴らしいです本当にすみません。
「新聞記者」は参院選前の公開で、首都圏では一切番宣が行われなかった。複数の制作会社から断られたそうだ。公開直後は映画公式サイトがサイバー攻撃に逢った。配給会社もクレジットを見ると一社の例外を除いて大手では配給されていない。全国でロードショーしてくれたイオンシネマには感謝したい。岡田克也は外務大臣としてはイマイチだったが、ご実家の映画グループは気骨あることがわかった。そしてネットと口コミだけでこの大ヒットである。
日本のCMで売れっ子の本田翼が、実際には存在しないようなステレオタイプの上級公務員の妻役で登場し、ファミリー映画の体裁を整えている。夫は妻の出産入院中、退院日まで自宅の郵便受けを一度も開けない(バカですか)。日本人の父と韓国人の母の元でアメリカで育ったという女性記者が、日本語より英語の方があからさまに発音が悪い。真実を追おうとする記者は、不審死を遂げた亡き父の遺志を継ぎたかったのだ、というファミリー映画としての伏線回収だった。
一方「かぞくのくに」で扱われたのは、両親が人生を投じて進めた政治運動にお兄ちゃんを取られてしまって、住んだことのない北朝鮮に「帰国」してしまったお兄ちゃんの一時帰国だ。劇中どうして井浦新が後で総括させられること承知でまで日本の「白いブランコ(1969)」を口ずさむのかピンと来なかったが、現代に設定された映画の時制と異なり、本物のヤンヨンヒさんの歳の離れた帰国者のお兄さんが、リアルタイムで体験されていたのがこの青春のフォークミュージックだったのだ。
第二次大戦終了時には日本国籍があった朝鮮半島由来の人たちは、1952年日本が主権を取り戻すと一方的に日本国籍を剥奪されて一緒くたに朝鮮籍となった。日本にいる間に成立した新しい国、朝鮮民主主義人民共和国も大韓民国も見たことがないし戦争状態だ。韓国籍になるにも日本籍に帰化するにも大変な手間がかかる。就労・結婚・行政サービス・教育・社会保障始め人生の全てであからさまな差別、そして可能性の制限があった。当時は産経新聞までが北側を「地上の楽園」と報道したそうだ。そんな中での「白いブランコ」だったのだ。
「かぞくのくに」と「新聞記者」はプロデューサーが同じ以外にも共通点があった。いずれも現実の出来事を題材にしたフィクションだが、サスペンスホラー・ファミリー娯楽作品として成立している。二作品の撮影監督は異なるが、手持ちカメラのような手ブレ長回し撮影を多用して、ドキュメンタリータッチの臨場感を演出していた。
ホラーの源となる目に見えない巨悪は、「かぞくのくに」では岸信介以下、与野党超党派議員が音頭を取って日本赤十字社が実施した国策の在日朝鮮人「帰国事業」で、「新聞記者」では「内閣情報調査室」が公安警察を私兵にして行うデマゴギーを駆使した世論操作だ。
そしてラスボス的に恐怖の鍵を握るザ・悪役が、「かぞくのくに」では組織からの監視者ヤンイクチュン、「新聞記者」では早稲田原理研出身と言われ、自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)を思いのままに操る「チーム世耕」を彷彿させる田中哲二である。いずれも髪型の特殊メイクで役作りをしている所まで共通だ。
そして何より、ふたつのあまりに相反する世界に引き裂かれて、矛盾の中に崩壊していく男性像を「かぞくのくに」では当時30代だった井浦新が、「新聞記者」では昨年30歳の松坂桃李が担当し、上品に高級一流モデルのような無表情で暗いライトを受けていた。成り切り型の舞台臭のあるメソッドアクティングをする役者でなく、暗めのスクリーン上で無駄な動きを廃して猫背でも品良く映る俳優をキャスティングしたのが、製作総指揮の河村光庸だ。
対照的に主演女優の造形は「かぞくのくに」も「新聞記者」も雄弁だった。安藤サクラ・シムウンギョンどちらの20代の天才型俳優も、豊かな無表情でト書きを全て無言で代弁していた。モデルとなったヤンヨンヒさんも望月衣塑子さんも実際はもっとカッコ良いテキパキとされた仕草なのだが、きっと人には見えないプライベートではああゆうもっさりとした冴えない一面もお持ちなのだろう。と思わせる迫真性に引き込まれる。
筆者が15年のアメリカ生活から変わり果てた日本に戻ってきた時、浦島太郎状態の自分が、ある日金城武の黒い瞳に被さるレッドクリフ・シリーズの音楽に吸い込まれて、アジア・パシフィックアイランダーとしての自分のアイデンティティーに安堵した覚えがある。「かぞくのくに」と「新聞記者」を観た瞼の残像に余韻を残した音楽も、同じ作曲家に拠るものだ。シンプルで深く響く音色だった。
ふたつの映画の世界で、男たちは結局いつも謝ってばかりいる。そして映画は全力で謝罪を拒否する新しい女たちの姿を描いて圧巻だった。国家が過ちを犯した時に誰もが被害に遭う。被害を受け入れるか、全身全霊で異議申し立てをし続けるのか。現在の日本に生きる観客が問われる形で映画は終わっていた。だからエンドクレジット後に少し居心地の悪い不全感と微かな希望が残る。主演女優たちのまっすぐな視線が忘れられない。
とここまで書いた時に新潟県の新発田市教育委員会が、このコラムでも取り上げた「金子文子と朴烈」上映イベントの後援申請を却下、の第一報が入って来た。市教育委員会の理由が「日韓関係の悪化により、社会的な非難を受ける恐れがある」「後援することで市が社会的非難を受ける恐れがある」という愚挙だ。後に市教育委員会の説明は「観覧に年齢制限があり教育委員会が後援するにはふさわしくない」に変節するも、昨年の上映作品『菊とギロチン』はR15だった。
『金子文子と朴烈』のPG12は成人保護者の助言や指導が適当という区分で、言い訳の見苦しさは英語で言うところのBull-Shitである。断固許すわけにはいかない。早速ここでも公権力に徹底異議申し立てを続けるのみだ。
本日のアクション: 長岡アジア映画祭実行委員会を応援しよう!