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わたしの言葉を。Vol.2 お世話になっている介護保険、でも! わたしの言葉を。

イトー・ターリ2020.09.18

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60歳になる2011年、突然、かかとを上げることができず、片足で立つことができなくなった。体操教室の指導者だったので恥ずかしい思いをし、その原因を掴めないでいた。1年後には、走れなくなり、歩くと足が重くなった。鍼、整体、温灸、さらに加圧式筋トレにまで通うも芳しくなく、自分で神経内科に関係する病気なのではないかと思うようになった。近所の内科医に紹介状を書いてもらい出かけた。「様子を見ましょう」という診断に付き合い、1年を過ごした。その間も、確実に脚の動きがおかしくなっていった。

パフォーマンスの活動は足の不調を隠しながら行った。取材は脚を引きずり歩き回った。重度訪問介護の仕事をしていたわたしは、次第に利用者さんの体を持ち上げることが辛くなり、その介護を降ろさせてもらった。また別の家では買い物用に自前で自転車を用意した。

さらに、こんなこともあった。重度障害の別の利用者さんのお宅に通うようになって2、3カ月経った時に、利用者さんから断りが入って、その介助を降ろされた経験がある。わたし自身打ち解けることができないなあと思っていた。その時はわからなかったが、わたしが筋力を落としたことで、ひょっとしてと思う。利用者さんは力のないわたしに不安を持った、つまり、委ねられないと感じたのではないか。本当の理由はわからない。今、介助される立場になって、いろいろなことを思い出す。

2014年春、都立病院神経内科に検査入院したが、原因はわからなかった。身体に限界を感じて、仕事一切をやめた。全て体を使う仕事だったからひとたまりもない。
再び夏に2カ月間の検査入院、あらゆる検査を行い、消去法の結果、脊髄性筋萎縮症(SMA)という診断が下った。この時、63歳5ケ月。

障害者手帳を受給し、生活が一変した。半年後、杖での歩行ができなくなり、電動車椅子生活に移行した。パソコンによるデザインを学ぶ就労支援プログラムを受け始めた。収入がなければパフォーマンスもできない、即断だった。パソコンを使う仕事だけが就活の道だった。

ここまでは障害者総合支援法に基づく支援を受けての行動。

ところが2016年春、65歳になると、自立支援課から「明日からあなたは介護保険の受給者になります」と言い渡された。それが何を意味するのか、わたしは知らなかった。2年間受給していた就労支援もわたしの意思でやめたあと、自立支援課からの受給者証が断ち切れてしまった。それが何を意味するのか、わたしは知らなかった。

「あなたは明日から介護保険制度の受給者になります」といわれて将来のわたしの生活がどのようなものになるのか知りたかった。市役所の介護福祉課を訪ねると「相談員」という名札をつけた初老の男性が現れた。「脊髄性筋萎縮症(SMA)(現在はALSだが)なのだけれども、要介護5のあとはどのようになるのですか」と聞いた。すると、「病院か療養施設に入ることになる。ただ、そこに長く居ることはできない。」と答えた。言葉を失った。「生活というもの」が抜け落ちているではないか。

介護保険と障害者支援の二つの制度の間に身を置いて葛藤した。例えばリハビリのことで。退院してリハビリができるところを探し出した。街の診療所では3ケ月がすぎると通えなくなった。仕方なく別の診療所にハシゴをしたら、同じ対応だった。なんで一生リハビリが必要な患者を追い出すのか。障害者施設でのリハビリを受けようとしたら、65歳以上は受けられないと言われた。いわゆる65歳問題だった。そこで、介護保険の通所リハビリテーションを当たると、歩けないのではだめと断られた。すると、訪問看護ステーションの訪問リハビリがあるという。自宅のベットが施術場となる。どうしてもマッサージが主になるわけで不満が残った。医療、障害者支援、介護保険が縦割りに存在し、患者がその時本当に必要なリハビリに出会えない、わたしの体験だ。

介護保険は介護が必要になった高齢者を社会全体で支えようとするのが目的である。一方、障害者支援法は障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するのがその目的である。目的が全く異なるのだ。

わたしは自身が高齢者だという意識が未だに希薄だ。筋力を奪われていく障害者だと思っている。障害があっても生きてきた生業を続けたいと思っている。病名が告げられた時、それが難病であっても、重度訪問介護があれば生きていけると思った。ヘルパーさんとのやり取りの中で自立した生活を作り、何処へでも出掛けられると思ったら、生きていけると思った。
CIL (自立生活センター)の重度訪問介護は当事者たちがねばりつよく、努力を積み上げて作りあげたものだ。

わたしは1年半は障害者の枠に居て、居宅介護のヘルパーさんに掃除をしてもらう生活介助を受けた。洗濯物干しもできなくなった頃からは介護保険の受給者としてケアマネージャーさんと生活の組み立てを行うようになっていった。できないことが増えるたびに、サービスが増えていく。また、室内でも車椅子に乗るようになると、バリアフリー化が必要になり、トイレに横付けできるように改修を施し、キッチンの改修も必要になった。今を自分らしく生きるために選択した。ところが、半年、一年が過ぎると身体の状況が変化して、調理すらできなくなり、外出用の車椅子に自力で移乗できなくなっていくのだった。進行が腕に顕著に現れ出したから。この腕への進行は痛手が大きく、精神的にも追い込まれていった。

着替え、車椅子への移乗に1時間かかってしまい、疲労困憊する体への救いの手はヘルパーさんだ。人の手を借りなくては生活できないという事態が増え、その自覚がわたしの身体に浸透してゆく。

「ヘルパーさんが居ない」という話をよく聞く。ヘルパーさんが居なかったら、わたしの生活は成り立たない。95歳の母と同居しているのだが、要介護認定を受けている母に介助してもらうことは無論できない。負荷が母の体にかかっている。二人のヘルパーさんたちの手を借りてなんとか生活している。1時間、あるいは30分単位で訪問し、街中を走りまくり、コロナ禍でも全く休みなく来てくれている。本当に感謝している。だからこそ、わたしは思うことがある。担う人がいないということは労働に対して正当な処遇がなされていないということではないか。生活介護、身体介護は女性が家の中でやってきたことだから賃金が低くて良いという発想から始まっていないか。この発想を根本からやめなければ、就労する人が減っていく。働き方は色々あるだろうけれど、生計を保てる賃金が保証されなければならないと思う。

「ヘルパーさんが居ないから」とよく聞く。例えば、夜間対応型訪問介護の定期巡回サービスはできないという介護事業所からの返事が多い。寝返りは、トイレは、夜間の過ごし方に不安がいっぱいなのにどうすればいいのか。そこで、提案、各事業所がその体制を毎日形成するのは難しいだろうから、7つの事業者が集まり、1週間に1回担当するというシステムは作れないのだろうか。市が率先して呼びかけてくれないだろうか。「ヘルパーがいないから」と言い放つだけですか。

「ヘルパーさんが居ないから」だから、夜間は男性ヘルパーが担うのだ。同性介助を守って欲しい。夜間女性が一人で回るのは危ないから男性が担うのだと聞いた。だったら、二人で回れないのか。これは人権のことだ。工夫して実行できないのか。

「ヘルパーさんが居ないから」に関連して。わたしのような難病による障害者は65歳になっても、障害者総合支援法に属するべきだと思う。身体介助に慣れないヘルパーさんに体を預けるのは勇気の要ることだからだ。慣れて、共に良い方法を見つけていけば良いことなのだけれど、介護保険のサービス対象者と身体介助が必要な人ではニーズが異なるのだ。年齢で仕切るのは無策であると、わたしの立場からだと言いたくなる。

菅新首相は「自助があって、共助、公助がある」と言った。これでは社会福祉は後退する。

※CIL(the Center for Independent Living)とは、自立生活センターを意味します。CILでは障害を持つ誰もが地域で暮らすために、障害者自身が必要なサービスやサポートを考え、創りだしています。「全国自立生活センター協議会」に加盟しているセンターは120ヵ所以上。政策決定の場にも参加し、障害をもつ当事者による当事者のための事業を展開しています。障害をもつ者が実施責任者となり、かつ、事務局スタッフの過半数を超えていること、障害種別を越えてサービスを提供することなどが基本です。情報提供と権利擁護を軸とし、自立生活プログラム・ピアカウンセリング・介助派遣などを行っています。(CILくにたち援助為センターHPより抜粋)

写真:Alisha Weng

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イトー・ターリ(いとー・たーり)

1951年 東京生まれ、在住 パフォーマンスアーティスト
1980年代後半からパフォーマンスアートを始め、国内各地、アジア、欧州、北米で活動。
エポックは1996年に行ったパフォーマンスでのカミングアウトだった。セクシュアルマイノリティであることについて考察し、パフォーマンスを行ったのだが、そのことは黙殺されている声や忘れ去れている事への「応答」へと導いていくことになった。
身体、ジェンダー、軍事下の性暴力、原発事故をテーマとした。また、ウィメンズアートネットワーク<WAN>(1994~2003)、PA/F SPACE(2003~2013)を運営、人が出会う場を思考した。
最近は筋肉が萎縮してゆく難病を抱えてしまったが、「身体」との旅を続けたいと思っている。
写真:Alisha Weng

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