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私のおばあちゃん2

2013.01.18

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 予約した上野のレストランの個室にみんなが集まり、Nちゃん(私の娘。当時4ヶ月)を囲んでお食い初めが始まった。円満で楽しい会だったと思う。両親とも「今までの親子3人が体験してきたものを一応全員が自覚して満遍なく背負っているギクシャクとした感じ」が初めて成立してる感じがして、私は満足した。
 宴もたけなわ、祖母に「お母さんを生んだとき、どうだったの?」と聞いた。「すごく嬉しかったよ」か「もう忘れちゃったよ」のどっちかを言うだろうと予想していた。そして「それを聞いた母」に注目していたわけだが、祖母は質問しても黙ってモグモグ食べている。もう一回言うと、叔母が「その角度だと耳が聞こえないんだよ」と言って、母が「おばあちゃんはね、安産だよ。子供生むことなんてどうってことない人なんだよ」と答えた。母本人が答えちゃう、という予想外の結果だった。シワッくちゃで体も縮みまくっている祖母が、「昔の人は子育てなんか全部人任せだった。今の人はえらい」とか「おっぱいが出まくったから他の赤ちゃんに何人も吸わせた」とか言ってるのを聞いて笑った。
 この日の母は、私から見ると“Aさん”に見えて仕方なかった。昔の知人、Aさんは、自分の話を聞いてくれる人だけを集めるのが好きだった。Aさん主催の集まりに行くと、2~3時間かけて、みんなでAさんの近況を延々と聞く。「Aさんの話を聞いてくれる」人の前ではすごく面白いし生き生きしてるが、反面、自分に興味が無い人に対してはすごく卑屈だったり、必要以上に嫌ったりする。「話を聞いてくれる人」の中でもさらにお気に入りの人は「何でも許してくれる人」に認定されているようで、彼らに対しては好き勝手しまくるため、突然嫌われて絶交されたりしていた。
 私は最初、「Aさんの話を聞いてくれる人」チームに入れられていてしょっちゅう呼ばれていたが、「Aさん王国」な感じにウンザリしてそっけなくすると、Aさんは私のことを異様に誉めるメールを送ってきたりする。Aさんの中では「話を聞いてくれる人」チームの他に、「何故か急に機嫌が悪くなったよく分からない人」チームもあるようで、本人も無意識なのかもしれないが、脈略なく誉めたりプレゼントを渡したりしてご機嫌をとることで「話を聞いてくれる」チームに戻るように促しているように感じた。Aさんのような人は、「○○さんはこうしてくれる人だから、こうしよう」という思考回路で生きてるように思う。自分のやりたいこともやってるけど、それをするときも基本的に他人が主語になっている。小学生の頃、こういう女の子が多かった。
 4年ぶりに会った母は私に、平民が偶然会えた王様に献上するみたいに「どうか…、どうかよかったらこれをもらってください…」という仰々しい面持ちでプレゼントを渡してきた。それが「何故か急に機嫌が悪くなったよく分からない人」にプレゼントを渡してる時のAさんの様子と全く同じで、アーッ! と思った。私は母の「何でも許してくれる人」に認定され続けていたから、「何故か急に機嫌が悪くなったよく分からない人」として扱われたのが初めてで、感動すらしてしまった。Aさんが重なることで、客観的に母のパーソナリティーを肌で感じることができた。私は小4くらいで既に母の精神的年齢を越していたんだ。そういう相手を母としてみなきゃいけない、娘として付き合わなきゃいけない。お互いに、そりゃあしんどかったよねえ、と思った。
 4年ぶりに会う両親のことは、「自分の両親」と思うと気まずさが爆発して居心地が悪くなる。「Nちゃんのじいさんとばあさん」と思うように心を切り替えると緊張がほぐれて快適だった。こうやって、一旦「自分の問題ではない」ことにして自分が向かうべき問題に対するストレスを軽減し、場を円滑に進めるという技は生きていく上で有効だ。だけど、それを日常にしてしまうと、あとでこんがらがる。
 高校生の私に祖母は「こんなこと言うのもあれだけどさ、あんたのお母さんは本当に大変な人だねぇ、苦労するねえ」とよく言っていた。他の人は絶対に誰も言ってくれない「あんなお母さんで大変ね」というセリフは、水の中の酸素ボンベのようなもので、それでなんとか、母から理不尽なことをされる日々をやり過ごすことができた。母のほうは「おばあちゃんは、私にだけいつもひどいことを言う」と漏らしていた。当時の私は「お母さんがそんなだから、当たり前じゃないか」と思っていて、祖母は私にとって、「母のモンスター行動について共感しながら話し合える唯一の相手」だった。
 だけど、今になれば「何言ってんだばあちゃん、あんたがお母さんに小さい頃から優しくしてあげないから“大変な人”になってんでしょうが」と思う。「自分の娘」という肩書きをいつのまにか「孫の母」と変換して他人事のように捉えることで、祖母はストレスを軽減させていたんじゃないかと思う。
 母が私をよく「誉めて」いたのは母が祖母からされたかった最大のことであり、過剰な教育は「私は娘の人生をよくする」という意地であり、私の人生の節目節目で自分が主役を張るのは「母にしてもらえなかったこと」を取り戻そうとする無意識で、母の私に対する言動のほぼすべては、祖母へのあてつけが基本になっているように思えてきた。そして祖母自身も「母(つまり私の曾祖母)」に対して熱烈なうらみを持っている人で、90ちかくなっても未だにその理不尽な思いは晴れずグチグチ言うことがあるらしい。祖母にとって曾祖母は継母で、実の子と差別され、冷たくされていたという。脈々とつづく、ネガティブ汁に漬けられた心臓を持つ女達の家系。
 「おばあちゃんのせいで」、私と母はえらい目に遭っていた。私はそういう視点を持つことを、自分に許してみた。
 祖母はあの時、「お母さんを生んだとき、どうだったの?」という質問が聞こえていなかったのではなく、意識的に黙っていたんじゃないか、と思ったのは、それから半年後のことだった。年末、祖母の家に電話をかけると祖母が出て、珍しくベラベラと世間話を喋ってくる。叔母がいないらしく、叔母がいるといろいろうるさいから、みたいなことを言っていて、もしかして今までの「おばあちゃん、ちょっとボケちゃったのかな」と思ったことは、叔母に口うるさく言われないために「大人しくしていた」だけだったんだと知って、心底驚いた。シワッくちゃの干し柿みたいなアナウンド90の祖母だけど、まったく衰えていない。「あたしや親や誰にも頼らないで子育てしてるあんたは偉いねえ」と電話口で言う祖母。「親や親戚や誰かに何かを頼る、頼む」という行為を禁止され、スプーンひとつ「取って」と言えば祖母・母・叔母に拒否され怒られた幼少期の私。こういう性格に孫を育てたのはあなたたちだよ、と頭で思いながら、「そうかなあ」と答えた。

 私は、自分や他の人の家族を見て、「親の役を降りない親」を持つ子供はつらいんだな、と思うようになった。子供の頃は誰でも理不尽な目に遭うけど、大人になってサッパリ忘れている人と、昨日のことのように覚えていて納得できない人がいる。前者の親は、ある時から枯れて、「親の役」を降りているように見える。だけど後者の親はずっと「親の役」の座から降りず、子供が成人しても結婚しても子供を持ってもずっと「親」をやっている。未成年にとって親は、自分の衣食住すべてを司る、絶対的で圧倒的で、脅威の存在だ。大人になったら今度はその存在を、自分の中に感じるのが人としての健全な成長過程なんじゃないかと思う。それには、目の前の「親」という役の人がそこを降りてくれないと始まらないのに、ずっとそこに居続ける親だと、脅威だけが残っていつまでも自分自身を信用することができない。それはとってもつらいことだ。
 祖母のパワフルさを目の当たりにして、この人がずっと「親の役」から降りてくれないんだから、そりゃあ、母はつらいだろうなあ、と思った。そういえば祖母はこないだジョナサンでビーフカレーを頼んでいた。疲れきった20代サラリーマンがやけっぱちでドカ食いするために発案されたような1000キロカロリーオーバーのがっつりメニューだ。他に頼むものがなくて仕方がないのかな、と思っていたら、祖母が巨大な塊肉を箸と指でほぐしながら、べちょべちょとゆっくり全部たいらげていて本当に驚いた。「何も食べれられなくなった」と数年前に言ってた気がするが…。叔母からしてみれば、「あまり会えない姪と楽しく話をしたりしたいのに、母がいると姪は母の話ばかり目をキラキラさせて聞くのでつまらない」という感じなんだろうなと気持ちもなんとなく理解できる。面白いトークと食欲と負けん気、そして弱弱しい見た目で孫の心を掴む祖母は、「母」として未だバリバリ現役すぎる。
 母と叔母と私の「こんがらがり」を生み出した張本人、おばあちゃん。そういう視点を持ってさらに、おばあちゃんが大好きになった。彼女達と頻繁に会ったり濃密に付き合うとこっちの精神が破綻するのでできないが、離れた場所から、おばあちゃんが、叔母が、母が、どういう女なのか知りたいと思うようになった正月だった。

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