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第三回 8年も付き合った相手にプロポーズして、フラれた翌日。

菊池ミナト2015.04.14

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仕事がある日の、私の朝は早い。
早いと言っても、農家や諸々の職人の方々と比べると大したことないのだろうが、ともかく、実際の活動開始時刻は定時の始業時間よりも早い。定時より早いというと語弊があるかも知れないが、大体始業時間の一時間半くらい前には職場の最寄駅に着いて、適宜の店で何がしかの飲み物を飲みながら日本経済新聞を読んでいる。
そして、仕事場が入っているビルが開く8時を待つ。始業時間は8時40分である。
時計が狂っているわけでも私がおかしいわけでもなく、職場全体において、慣習的にそうしているのであった。
もし電車が止まったら。止まらないまでも、不測の事態で遅れたら。自分の路線が止まらなくても、同僚の使っている路線が遅れたら。もしくは、出勤中に、やんごとなき忘れ物に気付いて一度自宅に戻る羽目になったら。その他、我々の想像もつかないような「何か」が起きたら。
そうした「もしも」に備えて、大体の人間が7時過ぎには職場の最寄駅に来ている。はっきりと言葉にして言われたことはなかったが、そういう精神が一種の美徳とされているようだった。私もご多分に漏れず、大いなる善良の波に呑まれて、平然と早朝から会社の近辺に出没していた。
約8年間も付き合った相手にプロポーズをして、フラれて、別れた翌日であったが、私は何も変わらずいつもと同じ時間にいつもと同じ席に座っていつもと同じ新聞を読んでいた。フロア中にコーヒーのいい香りが漂っていたが、残念なことに私は軽い二日酔いだったので、手元にあったのはガス入りのミネラルウォーターである。
紙面の上では日本や世界の株価や為替が上がったり下がったりするような重大な出来事がいくつも起こっていたが、見出しを拾い読みしても目が滑って肝心の内容が頭に入ってこない。携帯に届いているメールは、今日の天気予報のである。本日は晴れときどき曇り。そして二月平年並みの寒さ。新聞の下の方に目をやると、書籍の広告に「月刊 養豚界」の文字があり、前日の「ブタちゃん」を思い出して可笑しくなった。
私はベストを尽くした。もう、これ以上の「もしも」は起こり得ない。昨晩の席はほぼ消化試合のようなものであり、結果は見えていた。もう少しここで時間をつぶせば仕事が始まる。自分の努力がお金に変わる時間である。
私は金融機関で個人顧客向けの営業のような仕事をしており、主な業務内容は運用性商品のご案内である。運用性商品というのは、ものすごくザックリとした説明をすると、「儲かったり損したりする何か」である。窓口に座っているキラキラしたお姉様たちとは違い、日中は担当している地域をスーツでうろうろしており、もちろん年次相応のノルマがあり、かつ一番下っ端なのであらゆる雑用もやる。自分が採用された直後に株価大暴落の不況がやってきて、採用人数が激減してしまったので、もう何年も後輩が入ってこないのであった。
ビルが開く時間ぴったりに着くと、鍵当番の先輩が、複雑なビルの施錠システムを解除していた。
十四、五人の人間がビルの通用口の付近にたむろしている。その中に課長の姿を見つけて、周囲に挨拶しながら駆け寄った。
「かちょーおはようございまーす」と我ながら間の抜けた挨拶をすると、課長がにやりと笑う。
「おう、菊池おはよう。お前新聞見たか」
どれだ? まさか「前日にプロポーズしてフラれたばかりでぼんやりしております」とも言えず、「あっ、新聞ですかぁ」などと言いながら考える。「読んだ」じゃなくて「見た」だから広告か何かか? 一瞬、月刊養豚界が頭をよぎったがそんな筈は無く、中一面を使って大々的に広告されていた新しい運用性商品があったことを思い出した。
「あの広告ですよね?」
「おう」と言うと課長は手に持っていた新聞をさらに半分に折って、私の背中をパサパサと叩いた。
「需要申告、一番乗りで来いよ、お前ならできるだろ」
鍵が開いて、続々とビルに吸い込まれていく人の波に乗って、私はすっかりワクワクしていた。
「もっちろんですよぉ」
新しい運用性商品が出る。販売できる金額が決まっているものは、すべからく早いもの順である。ノルマがあるので皆がんばる。需要申告という単語は、この場合、「こちらのお客様がこれこれこういう商品のご購入を希望してらっしゃいますので、この金額分をおさえておいてください」と申告することである。日本中にある
一番下っ端の私が最初に実績をあげることで、課全体の発奮に繋がると思われているのだった。
その日に限らず、平生そうであったが、銀行が開いている9時から、窓口が閉まる15時を過ぎて、だいたい17時くらいまで外回りをしている。お昼ご飯は支店の食堂で食べないと課長に怒られるので、一度昼には戻る。午前中に多くて2件、午後は少なくとも2件、事前に訪問のお約束を取り付けている担当先があり、行ったついでにその周囲にある担当先にも顔を出して回る。顔と名前と資産状況が脳内に叩き込まれている担当先が、割り振られたふたつの区にまたがって三百名くらいおり、通常の移動手段は自転車である。
何十年もデザインが変わっていないような、全年齢対象、と洗濯ラベルに記載されていそうな外回り用の制服があったものの最近廃止されてしまって、それからはもっぱら動きやすさ重視のパンツスーツで通していた。
窓口のお姉さまたちは毎朝、ロッカールームで通勤服からベストとリボンの制服に着替えながら「あのビジューついたニット、後輩とかぶっちゃったぁ」「えーもう着てこれなーい」などと悩みを打ち明けあっていたが、女子力が死滅した私は着替えが面倒でスーツ出勤、せいぜい、自転車をこぎやすいパンプスに履き替える程度である。
新聞広告は絶大な効果を発揮し、おかげ様で、午前1件だけ入っていた訪問のお約束が3件になった。
うち1件は、「あなた、何年も付き合っているなら、結婚しましょうって自分から言わなきゃだめよ」というありがたいアドバイスをくださった年配のご婦人である。奥様方は皆、色恋のお話がお好きなようで、子供も手を離れてしまったし孫も遠方、という方々は大抵、仕事の話が終わると「もうお仕事のお話は終わりよね?」と確認をした上で、「あなた最近どうなの」と始まるのであった。そういう営業スタイルを嫌う先輩もいたが、私はすっかり孫っぽい立ち位置で営業するスタイルが身に染みついていたので、ご自宅に上り込んでお茶を頂戴するくらいに距離が近づいたお客様は、だいたい私がプロポーズしまくっていることを知っていた。プロポーズ無限ループのきっかけになったご婦人はその日も電話口で約束の時間を決めた後、「何か進展あったの?」と笑い、私も笑うしかなかった。
そのご婦人が、今の義理の祖母である。

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菊池ミナト

菊池ミナト(きくち・みなと)

主婦
リーマンショック前の好景気に乗って金融業界大手に滑り込んだアラサー。
営業中、顧客に日本刀(模造)で威嚇された過去を持つ。
中堅になったところで、会社に申し訳ないと思いつつ退社。(結婚に伴う)
現在は配偶者と共に暮らし三度三度のごはんを作る日々。
フクロウかミミズクが飼いたい。 

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