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親から子へのDVは許されている

田房永子2016.02.25

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 先日、ネットのニュースで「<デートDV>暴言や暴力…被害者は男子生徒、女子の倍以上」というものを見た。大阪府の高校生グループが府内の約1000人の中高生に「デートDV」に関する調査をしたところ、交際相手から「暴力をうけた」と回答した生徒の割合は女子生徒は12%なのに対して男子生徒は30%以上だった、というものである。
 読んでも読んでもどう捉えていいのか分からなくて混乱する記事だった。実感として分からなすぎて、内容よりも、このニュースがネット上の別のところで「最近の女子は怖い」という風に紹介されてしまっていることが引っかかった。

 痴漢犯罪はどうすればなくなるか、という話になると、「痴漢被害よりも痴漢冤罪被害のほうが多い」と言いたがる人がいる。理屈としては「男を騙しでっち上げ、陥れて金銭を得たりすることで何らかの快楽を得る不届き者な小娘が結構な数、存在する」ということらしく、「そんな不届き者な小娘たちが無実の男性たちを痴漢に仕立て上げている」というストーリーだ。そういう人は本当にそう信じている。そういう人が、長年痴漢被害に遭ってきたという人に向かって小娘ストーリーを真面目に語り痴漢被害の問題を矮小化させようとする行動は、インターネット上では日常的に見られる。

 それはJKビジネスの話にも似ている。不届き者な小娘がいるからJKビジネスが成立する、と何の恥じらいもなく堂々と言う大人がいる。
 痴漢にしてもJKビジネスにしても、「金のために自分の肉体や立場を使って誘惑したり騙す小娘がいるから、そういう行動に及んでしまう人が出てくる」「あるいは、完全なでっち上げ」「つまり、その人の方が被害者である」というストーリーが語られる。やっかいなのは、結構それが一般的な意見として社会にはびこっていることである。
 そもそも痴漢犯罪やJKビジネスは、そういう話ではない。もし「不届き者な小娘」がいるとしても関係が無い。単なる犯罪とシンプルな未成年の性的搾取なだけあり、人間がやってはいけないことなのである。なのに、加害者やそれをニュースとして見ている人たちは、何故か被害者側にキャラをつけてストーリー化したがる。話をしようとサーブを打っても、相手は別のコートにレシーブを返し、そっちでラリーが始まってしまう感じ。「被害」自体がないことにされる。
 先述のデートDVのニュース記事が、一部の層が支持する“不届き小娘ストーリー”の裏付けとして一役買っていると感じ、息が上がった。



 話はまた少し、変わっていく。
 このニュース記事をきっかけに、デートDVのパンフレットをネットで見た。デートDVをされている人が読んだら「自分のされていることは『デートDV』なんだ」と分かるように、箇条書きにされているものだ。(画像参照。ネットから拾った画像なので、どこの団体が出しているパンフレットなのか不明です。申し訳ありません)

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 そこに書かれていること。例えば、
●言葉での暴力・精神的暴力
・見下したことを言う
・「デブ・ブス」などからだのことを言う
・「そんなことも知らないの?」「普通そうだろ!」などと言って決めつける
・繰り返し批判したり、否定したりする
・なんでも1人で勝手に決める
・以上のようなことを言ったりしたりするのは相手のためだと言う
・すぐ不機嫌になり、それを相手のせいにする

など。

 ギョッとした。これって親子関係に悩んでいる人たちの『親にされて嫌だったこと』に丸ごと当てはまるじゃん。

●経済的な暴力
・デート代を払わせる
・バイトをさせる、やめさせる
・お金をねだる
・借りたお金を返さない


 デートDVの経済的暴力は「金をせびる」が代表的なようだが、同じことを子どもにする親もいる。
親子の場合は親が子どもの全生活の経済を担っている場合がほとんどだから、もし「親DV」というパンフレットがあったら、この欄に「『誰が学費を払ってやってると思ってるんだ。学校をやめさせるぞ』と脅す」とか「気に入らないことがあると『いやなら家から出て行って一人で暮らせ』等、とうてい選択できない極端な条件を出す」とかも入ってくるだろう。
 親子であっても、このデートDVの項目とまるで同じ関係になることがあり、それによって受ける被害も同じである。

 デートDVはその人の性質もあるかもしれないけど、「勘違い」が引き起こすことも多いんじゃないだろうか。「恋人になったからには、相手の携帯をチェックしなきゃいけない」とか「恋愛の相手のことは、ちょっと乱暴な態度で束縛するものだ」とか、どこかで間違った情報を入手し、それを暴走させてしまう。だから普段は友達相手には絶対やらないようなことを言ったりやったりする。DV行動をするかしないか、でしか友人と恋人を差別化することができないと思い込んでいたり、それが「恋人になる」ということだと信じてしまっているということもあると思う。
 親子関係も、親が子どもに対して「親というのはこうするものだ」と思い込んだまま暴走している場合がある。子どもだって人間であり親にとって他者なのに、友人や仕事相手や近所の人には絶対にやらないような傍若無人を、子どもにはする。
 若い恋人関係なら長くて数年だが、親子関係だとそのDVが十数年以上に渡り、しかも生まれた瞬間から一緒であり、家庭という密閉空間のため洗脳加減も相当に濃くなる。
 彼氏・彼女にDVされるのは拒否すべし、と周囲に言われる人が、恋人だけではなく親からもDV言動をされている場合、その辻褄はどうやって合わせればいいんだろう。

 親から子への虐待の問題は社会の関心は高い。ただその種類が、目に見える傷跡だったり怒鳴り声だったり放置だったり暴力だったり子どものゲーム機をバキバキして壊す有名人だったり、分かりやすいものしか他人は介入できない。言い方を変えると、「そのくらいのことをした親じゃないと、批判できない」。だから基本的に口を出すのは一生懸命育児をしている親に対して「失礼」みたいなことになってしまう。
 上記のパンフレットのDV行動は、親から子であればDVとしては認識されていない。

 ここからしばらくは、身体的暴力のことについて書きたい。
 そもそも子どもに対して身体的暴力衝動が起きたり、加害行為が止められなくなるということは、人間として生理的な現象だと思う。小さくて弱い生き物を守って育てること自体ストレスを感じることだし、思い通りに動いてくれない子どもを社会の時間や規律に沿わせなきゃいけないし、さらに予測できない危険(事故・災害・誘拐等の人災)もたくさんある。調整役である親は、子どもを守りたいがためにその子どもに暴力衝動が湧く、という矛盾が出たりすることがある。(例えば、子どもの健康を思い衛生面に気遣っているのに、子ども自身が汚れをまき散らす行動をし、やめてと言っても聞いてくれなくてカーッとなる、等)

 子どもに対しての身体的暴力衝動や、ネガティブな思いが湧いてしまうのは健全な心理の反応であって、問題なのは、それが膨れ上がりすぎて実行に移してしまう、ということだと思う。
 本当ならば、「子への暴力衝動」と「実際の暴力」を、分けて考えなければならないと思う。親から子への「暴力衝動」は認めるが、「実際の暴力」は許してはいけない、ただこれだけのシンプルなことなのに、こういう基盤がいまの社会には無い。二つがごっちゃになっている。
 例えば、ママ同士で話している時、「軽くたたいちゃったことがあるんだよね…」と悩みを話す人がいても、周りの人は「あるある、仕方ないよ」「それくらい大丈夫だよ」という返しにならざるを得ない。「暴力衝動が起きてしまう」ということに対しての共感を語り合っているのだが、結果的に「実際の暴力」を許すことになってしまう。
 これは、ママたちの意識が低いわけじゃない。社会全体の、子どもへの暴力に対する危機意識が薄すぎて、解決策が用意されていなさすぎて、個人間の会話もそうなってしまうだけである。

 実行が日常化してしまったり、そうなりそうな時は、まずは子どもと距離を持ち、離れている間に親が自身の心身を回復させる必要がある。
 だからもし、本当に社会が「子どもへの暴力」を許していなくて、真剣に考えていたら、お母さんが休めるホテルとかが用意されていてもおかしくないと思う。「子どもといるのがつらい」とか「かわいいと思えない」とか「殴っちゃうようになっちゃったから」とか「しばらく一人になりたい」とかいろいろな理由で「親を休みたい」と申請すれば1週間くらい休むことが出来るようなシステムだ。静かな空間でゆっくり食事をして、じっくりお風呂に入って、まずは自分を取り戻す。周りの人にも「ちょっと子どもに対してヤバかったから、ホテルに泊まってきた」と普通に言える空気があって、そうしてやっと周りの人も、子どもに対して必要以上にきつく当たっている親を見た時に、「何してんだ、ちゃんと申請してホテルに行って頭冷やしてきなさい」とか口を出せる。
 現実では、虐待防止センターとか、名前の暗黒なイメージがすごすぎるところしかない。しかもそこに相談したらどういうことになるのか、どんな効果があるのか、さっぱり分からない。だからママ同士で喫茶店とかファミレスでおしゃべりしてて、他の話の流れで出てきたそういう悩みに対して「虐待防止センターに連絡したら」なんて、返せない。
 社会が母親に育児のすべての負担をかけているから、世間は母親による子どもへの「ちょっとくらいの暴力」は許さざるを得なくなっている。「ママ同士の励まし合い」で事が済んでいることに、感謝しているくらいの流れがある。全てを各家庭の親(特に母親)に頼り切っている。

 いまの日本では、親(特に母親)はいつでも子どもが好きで一緒にいたがっているものだ、というイメージがべったり貼り付いていて、その漠然としたイメージに沿って社会が作られている。私の考える、上記の宿泊システムなんて単なる「理想」でしかないように思えるが、実際は「親(お母さん)はいつでも子どものことを考えて生きている」という今の社会で普通のこととされていることのほうが、「理想」すぎるんじゃないだろうか。

 子どもへの身体的暴力が「絶対ダメ」じゃなくて、「場合によっては有り。家庭内の自己判断でお願いします」みたいに漠然としてるから、子どもへの身体的暴力が悪いことなのか仕方が無いことなのか、分からなくなっている人も多い。第3者はそういう状態になっている人に何と声をかけていいかも分からない。
 私はその第3者の立場になったことがある。子どもへの身体的暴力を笑顔で話してくる様子を聞いた時に笑って返してしまった。半年前にも同じ人から同じようなことを聞いていたのに、その時も流してしまい、これは自分もその暴力に荷担していることになるんだと思ってショックだった。笑顔で自虐的に話してくるという状態も、罪悪感を感じてないわけじゃなくてSOSとしか思えず、胸が痛かった。
 その数日後、どこかのトイレで虐待防止センターの電話番号が書いてある啓発カードを見つけた。一番効果的な答えが返ってくると思えるのはここしかなかった。相談してみようと思って電話をかけた。
 私が、「こういうことがあって・・・」と話すと、返答の第一声が「通報ですね。その人はどこの区にお住まいですか」だった。ビックリして電話を切りそうになった。友人・知人のことなのに、突然「犯罪者」と「通報者」という関係になってしまう。「相談したいだけなんです!」と言うと、担当の男性職員に代わり話を聞いてくれたが、「暴力はいけないと思うよ、というあなたの気持ちをそのままお友達に伝えてみてください」と言われた。
 その時はそれですごくホッとしたけど、それだけ、なのである。実の母親から身体的暴力を受けている10歳にも満たない子どもに対して、周りの大人ができるのは現状、「通報」OR「いけないよという声かけ」のみである。
 著名な教育者の講演会に行っても「子どもは何されてもお母さんが大好きだから、ひどいことをしても大丈夫」とかトンチみたいなことを言っていて、聞きに来ている母親たちが、目に涙を溜めてウンウン、うなずいている。
 母親達が傷つきすぎていて、結果的に世間は、「少し大きくなった子どもへの親からの暴力」に寛容にならざるを得なくなっている。

 身体的暴力は表面的には許されないということになってはいるが、他の国のその印象に比べて、日本ではまずその話題がオープンな場で上ることがほとんどない。上がっても「子どもは殴らないで」としか言わず、じゃあ一体どうしたらいいのか、という具体的な解決法は明示されていない。つまり個人的にどうにかしなければならないのである。
 具体的な解決法がないのに、自分のやっていることは間違っていて他人からも責められることである、と自覚している人は自己嫌悪は加速させる。結果的に「ものすごく悩んで追い詰められる親」と化すことになる。こうなるのはほとんどが母親である。そうなった人を周りはもう追い詰められないから、「そういう時もあるよね。大丈夫だよ、お母さんがんばってるよ」なんて文言で励まさなければならない。

 世の中で「絶対ダメ」とされていることが、「子どもへの暴力」ではなくて、「“お母さん”でいることを休むこと、やめること」になっているからである。

 付き合ってる男に一発でも殴られたら、「そんなことする男とは別れなさい!」とバシッと言ってくる世間が、子どもを殴る母親には何を言っていいか分からない。むしろ「ちょっとくらい大丈夫。お母さんがんばってますよ」とか言うしかなくなる。親に殴られる子どもにも何も言えないから、「お母さんを困らせちゃだめよ」とか口走る。
 子どもって、体小さいのに。大人に殴られたら死ぬかもしれないのに。お母さんのことが大好きだからひどいことしても子どもは許してくれるなんて、大人達はどれだけ子どもに甘えるんだろう。



 実の親からDVを受ける、ことよりも実の親と離れて暮らすことのほうが、子どもにとって不幸である、という認識で社会は回っている。
 さらに「母親なら一番子どものことを分かるはずよ」とか、母親万能説で世の中が進んでいる。母親はいつでも子を思っている、だから暴力に見えることもそれは愛のある暴力である、だから愛として受け取るべし、子はいつでも親を許すべし、というストーリーがある。
 それは、親は万能であってほしい、子は騒がないで欲しいというただの願望である。そのほうが丸く収まって周りがラク、というだけのことである。
 この、物事は法則通りにハマるところにハマってきれいに並べるだけで問題は解決して目の前から消えて欲しい、丸く収まって欲しい、というテトリス欲求も人間の生理的心理の一つだと思う。みんな誰かが誰かの問題に介入しすぎていたら、それはそれで大変だ。他人と自分を切り離して自分自身を守る為に、テトリス欲求は人間にもともと備わっているものだと思う。しかしそれが行きすぎると、DVになる。
 自分の見ている画面の中でうまく収まるように、三角形のやつが上から降りてきても「お前はL字のコマになって、その向きでハマってくれ」とか言いくるめて、自分の都合のいいように相手の形を変えさせる。問題全体を目の前から消すことが目的なので、相手が「いや、L字じゃなくって、自分、△なんです」と訴えてきても、殴ったり脅したり力を振りかざして、下に降りきるまでに強引にL字にしてしまう。
 相手の形を変えさせて自分の画面にハマるコマにする力を持っているのは、社会、親、子ども、の順だ。社会がまず、親を自分の好ましい形でいるようにしていて、親はそれを子どもに対してする。本当は○とか△とか液体とかなのに、□が並んだやつのフリをさせられる。そのしわ寄せは弱い者へとたまっていく。当然、鬱憤はいつか大きなものとなって爆発する。

 痴漢犯罪やJKビジネスにおける「不届き者な小娘が男をたぶらかす」というストーリーは、それを語る人のテトリス画面であり、「不届き者な小娘」というキャラクターはそこにハマる単なるコマの形の一つである。
 これだけさんざん毎日のように痴漢で捕まった人について報道されているのに、痴漢犯罪というもの自体が存在しない、都市伝説だと思っている人がものすごく多かったり、JKビジネスも「やっている女の子も逮捕されないとおかしい」という議論のようなものがすぐ始まる。「やっている女の子(不届き者な小娘)」にスポットを当てて、利用している大人達のことには触れない。
 これはただ、その人が見ている画面ではそうなっているほうが、その人にとって気持ちがいいというだけのことで、実際の問題に対しての「意見」としてカウントすべきものではない。
 だけど、あまりにもそれが大きな声として世の中に蔓延している(象徴的なのは日曜の朝からテレビで流れている「ワイドナショー」という番組)ので、正しい意見の一つのように聞こえてしまう。
 他者(未成年の子ども)に対しての加害であるという認識を持つ機会が無く、更にそれが絶対的に悪いことであるという前提も浸透していないから、加害側を正当化してしまう、という構図が親DVと共通している。
 子への暴力衝動とテトリス欲求は誰にでもある生理的反応だから、そこは認めつつ実際の問題は引き離して考える必要がある。

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田房永子(たぶさ・えいこ)

漫画家・ライター
1978年 東京都生まれ。漫画家。武蔵野美術大学短期大学部美術科卒。2000年漫画家デビュー。翌年第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。2005年からエロスポットに潜入するレポート漫画家として男性向けエロ本に多数連載を持つ。男性の望むエロへの違和感が爆発し、2010年より女性向け媒体で漫画や文章を描き始める。2012年に発行した、実母との戦いを描いた「母がしんどい」(KADOKAWA 中経出版)が反響を呼ぶ。著書に、誰も教えてくれなかった妊娠・出産・育児・産後の夫婦についてを描いた「ママだって、人間」(河出書房新社)がある。他にも、しんどい母を持つ人にインタビューする「うちの母ってヘンですか?」、呪いを抜いて自分を好きになる「呪詛抜きダイエット」、90年代の東京の女子校生活を描いた「青春☆ナインティーズ」等のコミックエッセイを連載中。

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