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翻訳家の大西愛子先生から、新しく訳したという本をもらった。

『クレール パリの「女の子」が探す「幸せ」な「普通」の日々』(DU BOOKS)というものである。

大西先生は「主人公って、『女の子』に当てはまるのかなあ」とおっしゃっていたので、ページをめくると、主人公クレールが32歳から35歳までの話だった。私もこの秋に32歳になる。35歳までもあっという間だろう。35歳というのは、昔、「羊水が腐る」と言われた年齢である。

しかし、『クレール』の後半、主人公が子どもを持つか迷っているところで、彼女の友人が「まだ10年産める」と彼女を励ます場面を見て、私も、少し落ち着きを取り戻そうかなと思ったりもしていた。――今回は、妊娠と避妊に関する「モテ」の探求記である。

さて、私はずっと「子どもを産みたい」と思っていた。

言葉にできないという「産む」という体験をしてみたいし、延々と続く自分の価値観との対峙のような日々に、違う世代と触れ合う刺激が欲しい、そこから学びたい。それに、どんどん年老いていく親や祖母を目の前に、祖父母にとても可愛がってもらった自らの幼少期を思い出し、できるだけ3世代が触れ合う時間を長くしたいと思って焦っていた。

子どもが欲しいという気持ちは、「モテ」への原動力の一つであるかもしれない。

しかし、どうやら出産に相手が必要とは限らないらしい、と、ここ数年をかけて私はなんとなく学んできた。

30代女性が一人で子どもを産むために精子を提供してもらう映画『マギーズ・プラン』、古くは、メリル・ストリープが一人で子どもを育てる『めぐりあう時間たち』、最近だと『ワタシが私を見つけるまで』など、海外映画を見ていると、一人での出産というのは選択肢として十分にあるらしい。

『マギーズ・プラン』は、ケースに入れてもらった精子を、排卵日に自分でスポイトを使って挿入するという方法だったので、私も決心さえすれば案外すぐに実行できるかもしれない。以前に、避妊具の中身を絶対にトイレに流すと言い張った男性がいたが、警戒していたのかもしれないなと思う。

以上のような映画に加え、ソ連で書かれたという戯曲トレチヤコフ『子どもが欲しい!』の存在を知って、私はその選択肢に魅力をも感じてきた。

『子どもが欲しい!』について、詳しくは『メイエルホリドとブレヒトの演劇』(玉川大学出版部、2016年)の伊藤愉さんの論考を読んでほしいけれども、1926年の共同住宅を舞台に、主人公のミルダが、(彼女の場合は真のプロレタリアートを育てるために)社会全体で子どもを育てたい、夫は欲しくない、必要なのは精子だと言い切る。

どうしても父権主義に陥りがちな家庭において、真にジェンダーバイアスから解放された子どもを育てるためには、(現実的には一人で経済的にも精神的にも抱え込んでしまうことになろうから、経済力の乏しい私は二の足を踏んでいるが、もし本当に社会で育てることができれば)、こうした選択も悪くはないのではないかとも思える。

最近、同年代の編集者の中でも有望株の某君と飲むと、「『三位一体』って知ってます?」と言う。「えー、キリスト教のー?」と聞くが、違うらしい。

彼曰く、配偶者に対し、恋人、親、愛人のすべての役割を求めるからつらくなるのだという。

後日その話を別の人にすると、有望株君に心底呆れていたが、私には、なかなかに本質を突いているのではないかとも思えてきた。

以前、ハンガリーからやってきた友人が、「アンタは結婚したい結婚したいと言うが、日本では結婚したらセックスしなくなるんでしょ? どうしてじゃあアンタ結婚したいの? 理解できないわ」と言っていた。

身近な友人の中でも、結婚し、子どもが生まれた途端に母の役割に押し込められ、以前の対等なペアの姿ではなく、夫に対しても母の役割を果たしているのではないかという印象を受ける人もいる。そうではなく、私は一人の人間として大事にされたい。

ということで、「モテ」のためには、子どもを持つということを切り離して考え、それによって余裕を得たほうがよいのでは、なんてことも考えている。

最近のマッチングアプリでは、子どもが欲しいかどうかをプロフィール欄に書いたりするらしいので、男性側でも考えていることはあるだろうし、同じ方向を向いている人が見つかれば、一番良いのかもしれない。しかし、彼氏として、夫として、そして父として求められる素質は違うこともあるだろうから、そこが完全に最初から一致する人は多くは存在しないだろう。子持ちということで嫌煙される可能性も十分あるが、「三位一体」に多大な期待を押し付けて幻滅するよりも結果的にはうまくいくのかもしれない。

……と脳内で考えたところで、実際のところ、この選択肢は私の中で現実的なものではない。なぜなら、上にも書いたように私には経済力がなく、私が暮らす現代の東京は、1926年のソ連の共同住宅のような(あるいは村田沙耶香の『消滅世界』のような)一種グロテスクでも子どもを育てる社会ではまるでないため、予期せぬ妊娠は、失職や経済的破綻、社会的孤立に容易につながりかねない。

私の友人はとても優秀な人で、妊娠中に語学のスキルを付けたものの、それでも出産後の就職や保育園探しには心底苦労して、「子どもはとても可愛いけれども、出産すると人生が終わる」などとも口走っていた。きちんと経済的基盤のある人と結婚していても、そんなことが起こるのだから、一人で出産など夢のまた夢……と思わざるを得ない。

そこで大事になるのが、「避妊」である。冒頭に紹介した『クレール』は、新生児治療室で一生懸命働きながらも、彼氏とは3ヶ月以上続いたことがない主人公が、相手を探したり、ようやく付き合った相手との共同生活で悶々としたりしながら、本当の幸せを追い求めるストーリーなのだけれど、実は、一貫して「避妊」もテーマになっている。冒頭知り合った男は、クレールが「ゴムつけてくれる?」というまでコンドームをつけようとしない。そして別の男も、クレールがピルを飲んでいることを理由に、コンドームをつけない。

先日、勉強会のために中絶の国際比較を調べてみると、実は日本の中絶率は、フランスなどに比べて低く、それは「日本ではコンドームの装着率が高いからだ」という説があるらしい。

ピルが婦人科に行かなくても買えるようになるのはいいことだと思うけれど、フランスなどではピル服用・コンドームなし、という場合も多いらしく、ピルの服用に医師の指導がないので飲み忘れなどで妊娠してしまう場合もあるのだと読んだ。

アフターピルと、経口中絶薬を使った初期中絶の境目が曖昧でもあるので、フランスでは、日本のように中絶に対して赤ちゃんの呪いやメッセージなど大きな意味を付されることもなく、妊娠した女性の選択肢として普通にあるのだと言えるだろう。

実感としては、ちゃんと避妊をして「くれる」人は、結構少ないのではないかとも思える。大学生の時に同級生が聞き取りをしていたことをぼんやり聞いたことの、さらにぼんやりとした記憶では、コンドームをつけるかどうかは、初体験の時の装着の有無と関連しているという結果が出たと話していた(気がする)。

しかし、きちんと避妊に気を配って「くれる」人との関係は、自分でも驚くほどに安心できる。反対に、そうでないときにはどれほど気を張っているか、それを自分で気づかないように思い込んでいるのか、ハッとする。

きちんとした避妊をしなくてもいいということが、愛ということで丸め込まれる経験はあったけれども、そこで本当に責任を取ってくれるのか、自分の人生がどのように変わるのかについては、きちんと考えていなかったと思う。

「くれる」「くれる」と書いてしまったが、本来は互いで行うことなのであろう。

その選択に当然きちんと加われるような関係性を築きたいし、それをきちんと表に出せるような、堂々とした態度を携えたい。

私は尊重されるにしかるべきなのだ。それは私が目指す「モテ」の延長線にあることだろう。

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