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禁断のフェミニズムVol.12「からかいの政治学」を読んで

相川千尋2021.02.25

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先日、離婚についてのコラムを書いた後、次は労働について書いてみようと思っていた。女性と労働の問題について、自分の経験から何か書けるんじゃないかと思ったのだ。けれど考えているうちに、私には労働しようにも労働に集中する気を削がれる「労働以前の問題」があったことを思い出した。新卒で入社した会社で同期社員からいじめを受けたのだ。

ひとたび思い出すと、当時あったことがつぎつぎとよみがえり、このことを書かなければ、もう何も手につかないという状態になってしまった。「表現する」を英語でexpressと言うけれど、まさにex(外に)、press(押し出す)で、内側にあるものの圧力が大くなりすぎて、外に出さずにはいられなくなったのだった。

そういうわけで、今回は私が経験したいじめの話を書いてみた。


新卒で入った出版社でのことだ。入社早々、同期の男性社員A(仮名)からいじめを受けた。
リーマンショック後の2008年で、その年の新入社員は、金融危機が起こる直前の一瞬の好景気の間に採用された、数年ぶりの「大量採用」の8人だった。私は編集職、Aは営業職で採用されていた。
Aのいじめは多岐にわたったが、私の外見を他の女性と比べたりしながら、からかうということが多かった。Aは、彼の目から見て美しくないと思う女には何を言ってもよく、そんな女に人権はないという考えの持ち主のようだった。
服装も彼が好きなテーマだった。「相川、何その服?」
あるいは、私が話しているのをさえぎり、言葉を続けさせないというものもあった。同期入社の社員同士の集まりで私が口を開くと、Aは「相川、黙って」と言った。私は黙らない。すると、「相川、お猿さんなんでしょ、ウキーって言うんでしょ、ウキーって、アハハ、アハハ、アハハ」と大きな声で笑うのだった。
「やめて」
「お猿さーん、アハハ、アハハ、アハハ」
「ほんとにやめて」
「お猿さーん、ウッキー、アハハ、アハハ、アハハ」
「あんたこそ黙っ…」
「相川、お猿さんだもんねッ! ウッキー」
お猿さん。22、3歳の男性が、こうやって私をいじめたのである。私は許さなかった。


「からかいの政治学」という論文がある。ウーマンリブがなぜメディアで「からかい」や「嘲笑」の対象となったのかという問題意識から出発して、「からかい」という行為のもつ、隠微な暴力性をあぶり出した論文だ。
論文ではまず、「からかい」を「遊び」と定義している。

からかい」の言葉とは、「遊び」の文脈に位置づけられている。すなわち、「からかい」の言葉は、けっして言葉どおりに、「真面目」に受け取られてはならないのである。「からかい」の言葉は「遊び」であり、余裕やゆとりであり、その言葉に対しては、日常生活における言葉の責任を免れている。
(江原由美子「からかいの政治学」『女性解放という思想』p.176、勁草書房、1985年)

このため、「からかい」に対する抗議は困難となる。

「からかい」に対する抗議は困難である。なぜなら、「からかい」の宣言は、それが「遊び」であることを主張するのであり、「からかい」の行為や言葉が、通常の社会的責任を免れることを表明するからである。すでに述べたごとく、「からかい」の行為や言葉に対して、その内容に対し、「真面目」に批判し抗議しても、それは「遊び」のルール違反であり、オーディエンスに対し、説得力を持つ主張とはなりえない。
おそらく、そうした抗議は、「おとなげない」行為としてさらなる失笑を引き起こす(…)。
(前掲書、p.186)

Aのいじめは、まさにこの「からかい」だった。
私はAのいじめを自分の上司やAの上司、総務部に報告したことがない。Aを許すことはなかったが、同時に「こんなことで大騒ぎするのはおとなげない」とも、どこかで思っていたのである。
また、「からかいの政治学」では、周囲の人間が「からかい」を傍観しがちな理由を、次のように理論づけている。

集団内で「からかい」が提起されれば、それに反対する理由が特にない限り、「からかい」の共謀者となることが、その場にいる全員に要請される。なぜなら「からかい」は「遊び」であり「冗談」だからである。「遊び」である以上、ルール破りは最大の「遊び」に対する冒涜なのである。したがって、ルールを破らないという消極的な共謀を、そこにいる人々すべてが要請されるのだ。ルール破りをあえて行うにはかなりの勇気がいるだけでなく、その場にいる皆を納得させるだけの正当な理由が必要なのである。(前掲書、p.177-178)

ここに書かれている作用は、私の周囲にもたしかに及んでいた。私の目の前で誰かが私をかばってくれたのは、2回だけである。1度目は、飲み会から帰ろうとする私に、Aが「相川、なんで帰るの?」とからんできたとき。あまりにしつこいので、同期の女性が「嫌がってるから、ほんとにやめな」と言ってくれた(感謝している)。
2度目は、私に向かって「え、なんで? Aくんと仲良くすればいいじゃん」と言い放った先輩社員に、同期の男性が「相川さんがAくんを大嫌いになるのはしかたがないと思います」と言ってくれたときだ。だが、後日その同じ彼が「相川さんとAくんは同じ集まりに呼べなくてめんどくさいんだよね」と笑っていたこともまた、私は覚えている。
これが、周囲の人間の本音なのだろう。しかし、めんどくさいのは私のせいだったのだろうか?


いじめが始まった直後のことだ。あるとき、Aの上司に呼ばれ、上司、A、私の3人で居酒屋に行った。水道橋駅近くの小上がりのある店だった。上司が壁を背にして上座に座り、私とAは隣あって、上司の前に座った。
Aは上司に「そうっすか! ハッ、そうすねッ!」と相槌を打って、ペコペコしていた。「ビールをつぐときは、ラベルを相手に見えるように上にするんだって」と私に説明して、お酌なんかしながら。Aは上司の前では、私をからかわなかった。
どういうつもりなのだろう。上司がトイレに立ったとき、私はわざと言ってみた。「畳だから、姿勢がつらいね。○○さんみたいに姿勢よくできないね」
いつもなら「○○さんに比べて、相川はほんとに姿勢が悪いよね、お猿さん」と始まるところだが、Aは代わりに「そうだよね。○○さんは、ほんとに姿勢がいいよねー」と言っただけだった。
その日の帰りの電車でも、最後までAは好人物を演じきった。特急の中でAの上司が眠ってしまっても、「営業の席では、野球と政治と宗教の話はしちゃいけないんだって!」などと、言い古されたつまらない「マナー」を、世紀の大発見のように教えてくれるのだった。


Aが私をいじめ始めたきっかけを、私は知っている。入社後数日間の研修の後、新入社員が各部署に配属になった頃だった。Aはくだんの上司だか、あるいはくだんの上司の上司だかに、こっぴどく叱られたのだった。それをどこかから伝え聞いた私は、何の気なしに、Aに「聞いたけど、大丈夫?」と言ったのだった。Aが用もないのにかけてきた、電話口でのことだったような気がする。
その翌日から、いじめが始まった。男のプライドを傷つけた女は、こうして罰せられるのである。
Aのいじめは夏まで続いた。夏にはもう通常の業務が始まり、Aとはほとんど顔をあわせなくなっていたが、ある日の出社途中に、東京ドームと水道橋駅をつなぐ「後楽園ブリッジ」という神田川にかかる橋の上で、私はAとすれ違った。
黒ずくめの服装をしていた私を見て、Aは言った。「相川それ、喪服? アハハ、アハハ、アハハ」
「からかい」は場に依存したものでもあると思う。こうして文字にしてみても、あまり伝わらないだろう。だが、このいじめがそこそこに深刻なものだったということは、周囲の反応が証明している。


入社した年にいじめられて以来、私はAのことを決して許さなかった。絶対に口をきかなかった。そして、加害者は誰が見てもAのほうなのだった。さすがに、周りもまずいと思ったのだろう。入社から7年後、私が転職をする直前に「謝罪の会」がもたれた。
誰にどんなふうに誘われたのだろう。私はひとりでその場にのぞんだ。Aは男の先輩たちを4~5人連れてきていた。水道橋の居酒屋で、私はAと男の先輩たちに囲まれていた。
Aは「申し訳ありませんでしたッ!」と大きな声で言った。
「からかい」の磁場の中にいた私は、こんなとってつけたような謝罪でも、もし受け入れなければおとなげのない人間とみなさるのだと感じた。謝罪を受けた以上、許さなければ今度は私のほうこそ悪者にされると、その頃はまだ信じていた。
どんな言葉で伝えたのだったか、とにかく私は謝罪を受け入れた。心の中では、少しも許してなんかいなかったのに。最後の最後に、私は自分を貫くことができなかった。
「じゃあ、これで、いいね?」とひとりの先輩が言った。ほかの先輩たちは、にやにやしていた。「よかったな、A」。私への謝罪を通して、男たちの絆が深まったようだった。


Aが極悪人でないことは私も知っている。諸先輩方に愛され、取引先にもおそらく愛され、よき夫であり、よき父であったりするのだろう。ちょうど、ほかの多くのハラスメントの加害者たちと同じように。
私は夢想する。いつか私は実名で、Aを告発するのだ。彼はメンツを保つために、そしてあわよくば潔白を証明するために、あるいはせめて話をうやむやにするために、自殺する。周囲の人間は私を責める。「お前がAを殺したんだ。そこまですることなかったじゃないか。根は悪い奴じゃなかったんだから」
彼の葬式で、今度は本物の喪服を着て、私はなんと言い返そうか?
こんなことを想像している私は、おとなげのない人間なのだろうか?
私はそうは思わない。今後二度と、ほんとうは許していない相手に「許す」と言わないために、受け入れるべきでない謝罪を受け入れることのないように、私はこの妄想を、手放すつもりはない。

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