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「表現は社会に影響を与える」
いつものことながら、インターネットは「表現の自由」についての議論がさかんだ。
6月12日に、「放射能の調査をする」と称して民家に押し入り女子中学生の体を触ったとして、別の強制わいせつ事件で逮捕されていた35歳の男が再逮捕された。
この男がクジラックスという漫画家の「がいがぁかうんたぁ」という同人誌を参考に犯行に及んだと供述し、8件の同様の事件についても自供したことで、警察がクジラックスに対し「今後は模倣されないように配慮してくれ」と、「異例の申し入れ」をしたことで、先日可決された「共謀罪」と絡めて、
「表現規制の第一歩ではないか」
「クジラックスくらい過激な表現に対してはなんらかの対応が必要なのでは」
などと意見が分かれている。
「警察は法的根拠のない行動をするな」
「表現規制はエロから始まる」
これはまったくもって正しい。正しいのだが、ひっかかるものがある。
想像力があれば、
「わが家がトラウマの場所となってしまった子どもが長く苦しむことにならないか」
と心配するだろうし、
「性犯罪は許さない」
「子どもを守らねば!」
という声をまずあげるのではないか。
そして「こういう事件を繰り返さないためにはどうすればいいのか」を大人として話し合うのではないか。「表現の自由」の話は子どもに配慮してからにしてほしい。

表現は世の中の雰囲気を作る
今までビヨンセを崇拝し、小沢健二を指針にして生きてきた。
さまざまなミュージシャンの発信するメッセージに反応し、蓄積されたのがわたしのアイデンティティだ。これからも価値観は更新されていくのだろう。
表現によって考えが変わったり、自分の間違いに気付いたり、逆に今までの自分の行動を肯定できたりするのは、ごくごくありふれた話で、そういう反応や共感により生まれるコミュニケーションが表現の、芸術の醍醐味なのではないか。
表現に影響はつきものなので、
「漫画を参考に犯罪を犯す人がいても、その漫画家に責任はない」
とする意見には納得できない。厳密に言うと「責任はない」ではなく「法的責任はない」だろう。
例えば、「名探偵コナン」の作者は「マネされにくいトリック」を描くように注意しているらしい。
「名探偵コナン」にリアリティあるトリックが描かれ、マネをする人が出たとしても、作者に「法的責任」はないだろう。
しかし、そういう自体を招かぬように、「配慮している」と言っていることが大切で、有名な漫画家の表明により「気をつけなくてはいけないな」という雰囲気が作られる。そうした行為をするのが「大人の責任」だ。
現在は削除されているのだが、クジラックスは事件が公になったその日に、凶悪犯罪のモデルとなった同人誌から、
「なんでわたしだけぇぇぇぇ」
と、強姦された子どもがトラウマに苦しみ号泣しているひとコマを、わざわざツイッターに投稿していた。
「ロリペド漫画はいっぱいあるのに、なぜ自分の作品だけが模倣された?」
と、被害者ぶっているのか。
さらに、
「これは笑うwwwww」
などと、ネタとしか考えないファンの反応がたくさんあったことも忘れられない。
表現への反応もまた表現で、被害者がいて、さらにその被害者が子どもだというのに、「性犯罪を許さない」という雰囲気作りをしないこと、それ自体が「大人の責任を放棄した」ということなのだ。

露悪趣味のチキンレースをやめろ
実は、自分の考えとの整合性が取れない「反社会的な表現」を大好きになってしまうことがよくある。
ギャングスタラップは、銃、麻薬、犯罪、金、車、女などが題材の、とんでもなく「ワルい曲」がたくさんあるのだが、貧困地域の若者にとっては、ギャング以外のことで稼いでいる地元のスターがいることは、大きな希望になったりするのだろう。「ワルい」表現は、必ずしも社会に悪影響かというと、そうではない。
だから、「アリな表現」と「ナシな表現」の境界線は、なるべく「絶対的にナシな表現」の近くに引いた方が良いとは思っている。法的にはギリギリまで自由を認めるべきだ。
しかし、「法的にはアリだがこれはさすがにダメなんでは? 」という議論が盛んで、こまめに表現者や愛好家が省みる機会がないと、「脱法的ナシな表現」に挑むチキンレースになりがちだ。
「誰もやらないようなワルい表現」は話題にされやすく、表現者が露悪趣味を競い合うことで醜悪極まった表現があふれる。だから、「法的なライン引きを変えた方がいい」と考える人が増えるというわけだ。

表現規制を避けたいなら
先日、武蔵野美術大学の志田陽子教授の「表現の自由とジェンダー」という講座を受けてきた。そこで、
「法的拘束力はなくとも、シンボルを掲げることで世の中の雰囲気が変わる」
という話があった。
2015年に、渋谷区と世田谷区で同性カップルに向けた「パートナシップ公認条例」が制定されたが、これで法的に同性婚ができるようになるわけではない。しかし、行政がそういったシンボルを掲げることで、不動産業界が「同性カップル向け物件」を提案したりするようになる。つまり、法的な効力はなくとも社会を動かすことができるということだ。
普段からそういった啓発をしているのが理想だが、せめて、今回のクジラックスのような事態が起きた時くらいは、
「小児性愛から児童を守れ」
というメッセージを積極的に発するべき。それはむしろ表現規制を遠ざけるために必要な行為なのだ。
さまざまなカルチャーを自由に楽しむためには、発信者や愛好家からの
「他者の人権を尊重する」
という誓いが必要。それを表明することで、被害者や、過去に同様の被害にあった人たちへの救いにもなり得るのだ。
何か起きた時にこそ、表現者やシーン全体の存在意義が問われるのは世の常だ。きちんと向き合ってほしい。

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阿部悠(あべ・ゆう)

兵庫県出身。ローティーンの頃からクラブに入り浸り過ぎて中卒。関西を拠点にクラブDJとして活躍。3.11後の原発事故にショックを受けて反原発活動をはじめ、社会運動に目覚める。最近は「女叩き」カルチャーに怒りを燃やして、ネット上に溢れるミソジニスト達と本名顔出しで日々格闘。ビヨンセを崇拝している。 

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