先日、Facebookである記事を目にしました。
若い日本人男性が、オーストラリアの北部から南部まで、約3,500キロメートルの距離をリヤカーを引きながら徒歩で縦断したという内容でした。現地のオーストラリアのニュースでも「偉業」として報道され、多くの称賛の声が寄せられていました。
しかし、私はその記事を読み、素直に感動することができませんでした。むしろ、強い違和感とともに、言葉にしがたい性別による痛み―私はそれをあえて「性別痛(性別によって生じる痛み)」と呼びたいのですが―を感じました。
この挑戦は、本当に誰にでも可能なものだったのでしょうか。そして、個人の努力や勇気だけで語られるべき出来事だったのでしょうか。
私は、単身で長距離を歩いて旅をすること自体が、男性であることによって社会から与えられている「安全」や「信頼」を前提とした行為であり、一種の権力であると感じています。女性の生活を少しでも想像すれば、その違いはあまりにも明白です。
女性が家を探す際、まず考慮しなければならないのは家賃や間取りだけではありません。治安の良さ、夜道の明るさ、建物の防犯設備など、身体や生命の安全に直結する要素を優先せざるを得ません。その結果、同じ条件の物件でも、より高い費用を支払うことになります。家の外に一歩出るだけでも不安を抱えながら生活している女性は、決して少なくありません。
そのような現実の中で、ひとりで大陸を横断したり、数千キロを徒歩で移動したりすることは、多くの女性にとって想像すら困難な行為です。それは能力や意思の問題ではなく、生存の問題だからです。この現実こそが、私たちが日常的に抱え込まされている虚しさの正体ではないでしょうか。
行為芸術家であったピッパ・バッカ(Pippa Bacca)の事例は、この現実を痛切に示しています。彼女は人間の善意と世界への信頼を体現するため、純白のウエディングドレスを身にまとい、ヒッチハイクによる旅に出ました。平和と信頼を訴える芸術的なパフォーマンスでした。しかし2008年、その旅の途中で彼女は性的暴行を受け、命を奪われてしまいました。彼女の死は、世界が女性にどれほど過酷であるかを突きつける出来事でした。

それにもかかわらず、私たちは今もなお、「過酷な環境の中でヒッチハイクをしながら大陸を横断した立派な青年」や、「ひとりで国を一周した勇敢な挑戦者」といった記事を繰り返し目にします。そして、その主役の性別は、ほとんど例外なく男性です。
私はそれを、無条件に「すごい」とは思えません。むしろ、男性であるがゆえに社会から当然のものとして与えられてきた安全と自由の上に成り立つ行為であり、男性権力の一形態ではないかと感じます。その事実を突きつけられるたびに、私は再び性別痛を覚えます。
もし女性たちも、同じように安全を前提として移動し、挑戦できる社会に生きていたなら、どれほど多くの可能性が開かれていたでしょうか。私たちが目にすることのなかった才能や挑戦の多くは、女性たちが避けざるを得なかった夜道や、諦めざるを得なかった選択の中で、静かに失われてきたのではないでしょうか。
このような記事に触れるたび、私は称賛よりも先に、深い苦さを覚えます。それは個人の努力を否定したいからではありません。性別によって分断された安全と自由の格差、そしてそこから生まれる性別痛に、目を背けることができなくなったからです。
男性たちが当然のように享受してきた安全と自由と同じだけの機会が、女性にも等しく与えられる社会になったとき、私たちは今よりもはるかに多様で、豊かな世界を目にすることになるでしょう。
その日が来るまで、私は問い続けたいと思います。
これは本当に「個人の勇気」なのでしょうか。
それとも、「性別によって与えられた特権」なのでしょうか。
*関連記事:https://www.sbs.com.au/language/japanese/en/podcast-episode/a-3-500km-journey-of-kindness-tomoya-matsusaka-walking-australias-east-coast-paying-forward-every-kindness/yo9enxzss














