小学生の頃、「そろそろそういう時期」みたいな感じで、「変なやつがいるから気を付けなさい」と母から忠告を受けた。「女は痴漢に遭うんだから気を付けなさい」という意味である。母の予言通り、小学生の頃に痴漢に遭い、そのあともぽつぽつと遭い、中学2年生からは痴漢被害に遭うことが「日常」になった。触られるだけではなく、バイクで着けられたり、ずっと隣を歩かれて話しかけられたり、いきなり「写るンです」で写真を撮られたり、自転車のかごに卑猥な手紙を入れられたり、とにかく「性的な視点を含んだいやがらせ」を毎回違う見知らぬ男から受けた。大抵は乱雑なものだったが、たまに紳士な感じで丁寧に話しかけてくる者もいた。
「さっき、駅で立ち読みしていましたよね。おうちまで送りますよ」
そう言われても、駅から10分くらいかけて住宅街まで着けられてたんだ、と分かっただけでも気持ち悪いのに、「家まで送る」って意味が分からなすぎて恐怖しか感じない。しかし、親切をしているくらいの雰囲気でにこやかに言ってくる20代後半くらいの男。
中学生の私は、駅や街にいる「ロリコンの男」に大げさではなく、常に目をつけられていた。それは私だけじゃなく、学校に行けば同じような目に遭っているクラスメートがたくさんいた。
泥棒なら、スリなら、犯人はお金が欲しいんだと分かる。だけど「痴漢(性的ちょっかい)」は何が目的なのかさっぱり分からなかった。
親や教師に「どうしてそういうことをされなければいけないのか」「なぜ痴漢は痴漢をするのか」と尋ねても、まるで「言ってはいけないこと」があるような困った顔をして、大人たちはモゴモゴとし、「いるんだから仕方ない」としか言わなかった。
「痴漢をする奴がどんな心理でそれをするのかは重要ではない。あなたたちはそんなこと知らなくていい。ただ、そういうことをする奴はいる。いるから、気をつけなければならない」という論理を大人たちは共有していた。どの大人も同じことしか言わない。
大人たちの論理では「痴漢をする奴」はもはや人間ではなく、脈略無く現れる害虫のようなものだった。「害虫に出くわしたくらいでいちいち騒がないの」というメッセージでもあった。だけど実際に痴漢をしてくるのは人間だ。「どうして私たちは痴漢被害に遭うのか」、知る権利があるはずなのに、大人は誰も教えてくれなかった。
そして私は32歳になった時、衝撃的な事実に気づく。
「なぜ痴漢は痴漢をするのか」を、大人も知らない、という事実だ。子供には言いにくいから大人たちが隠しているんだと思ってた。そうじゃなくて、知らないから中学生に聞かれても答えようがないし、指導のしようもなかったんだ。
例えば電車内痴漢は、「男性」が「満員電車」で「露出の高い服装の女性」によって「性欲」を「刺激」されて「女体に触ってしまう」、つまり満員電車と女性の服装によって誘発される犯罪であると一般的に認識されている。その痴漢加害を起こす「男性」は、単なる「我慢できない異常性欲者」又は「性欲が溜まっている者」又は「飲酒により前後不覚の者」だと、世の中では片付けられている。
しかし元被害者の立場からすると、空いている電車でも痴漢はされるし、まず私は露出の高い服を着たことがない。デニムを履いていてもコートを着ていても遭うし、触られるだけでなく触らせられるのもあるし、女性と密着してムラムラしてしまった、というよりは、彼らはホームにいる時点で既におかしな眼をして女性を物色していることが多い。
以前、電車の中で異様な目つきをし20代前半くらいの女性の後ろ姿を凝視し、近づき、女性のお尻へ手を伸ばしている男を目撃したことがあった。その時かなり冷静に男の様子を見たが、彼が一体なにを考え、何を目的に、第3者に丸見えの状態でそんな大層な犯罪を犯すのか、さっぱり分からなかった。
しかし彼の、「おそらく『逮捕』的な何かを恐れながらも、周りがさっぱり見えていない感じ」と、「女性を触る行為そのものに対しては迷いがない姿勢」から、彼の中で主観と客観がバラバラに矛盾していることだけは伝わってきた。
一体、痴漢が痴漢をなぜするのか分からないまま3年が過ぎた時、私はある本を読んだ。「刑事司法とジェンダー」(牧野雅子著・インパクト出版会)だ。著者の牧野さんが連続強姦加害者(Y)へ長期間に渡り取材をし、刑事司法が性犯罪加害者をどのように扱っているのかジェンダーの視点から迫った、最強の名著である。その中で、Y自身が語った「強姦を犯している時」についての部分で衝撃を受けた。
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Yは強姦をしようと女性を襲った際、狙いを定めて自分が襲いかかったにもかかわらず、被害者の存在に驚いたのだという。また、女性を拉致したり、女性宅に侵入した時、Yが彼女らの生活空間に侵入したにもかかわらず、彼女らがYの世界に入ってきたのだと語るのである (「刑事司法とジェンダー」より引用)
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加害を起こしている側が『被害者のほうから俺の世界に入ってきた』という、普通に考えたら意味不明なYの言葉が、私が今まで見た、全ての「痴漢」の行動の説明として、成立していた。
私にいやがらせをしてきた痴漢たちが、「捕まること、見つかること」をビクビク恐れているくせに、何の得があるのか分からない加害行為(スカートのひだをソーッとなでるだけ、とか)を自らしてくるあの感じ。犯罪をしているくせに、どこか確信のような自信のようなものを持っている感じ。こっちはあからさまに気味悪がっているのに、紳士を気取って馴れ馴れしいあの感じ。眉間にしわを寄せながらこちらが逃げると「えっ? なんで?」と、意外だ、みたいな反応をする感じ。自分が電車の揺れを利用して私の股間に手を伸ばしてきたくせに、こちらが「痴漢です!」と声を上げたら明らかに怒りを持った眼差しを向けてくるあの感じ。
彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ。ハタから見ると充血した眼で股間ふくらませて女の子に不自然に近寄ってるだけなのに、彼らの頭の中では女の子のほうが誘ってきてる、くらいの感覚なんだ。私を家まで送って欲しいとか、私に触れて欲しいと俺は頼まれている、くらいの感覚だったんだ。
Yの心境と、今までの痴漢たちの不可解な言動が、あまりにも合致した。私はずーっとピースが見つからなかったパズルが埋まった充実感と、「ふざけんじゃねえ!」という怒りと、腹の底から沸き上がってくる気持ち悪さで、本を持ったまましばらく動けなくなった。
そのあと私は電車内痴漢に関する取材を重ねた。電車内痴漢加害をしている最中の者はやはり「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っていると感じた。自分の『膜』の中に入ってきたのは女のほうであり、なぜかその女のことを何をしてもいい「もの」のような感覚で捉えていて、そこから独自のストーリー(大抵は「女のほうが欲情している」というもの)を展開させ、それに沿って行動している。だから「相手の女性は痴漢行為を受け入れている。喜んでいる」と解釈したり、「電車の中で触られたがっているけど自分からは言い出せない女の子を触ってあげている」と親切心のようなものを持っていたりする。その行動自体は、まったくムチャクチャで一方的で意味不明なのだが、彼らの『膜』の中では矛盾がない。矛盾がないからこそ遂行できるわけだし、むしろこの「『膜』の中のストーリー」が無ければ、いくら発情状態の男でも電車内で見知らぬ女に触るなんてこと、できないはずだ。
そういった「電車内加害者の『膜』」や「『膜』の中のストーリー」を理解し始めたことで、私の体に変化が起こった。テレビから「どぶろっく」の芸が流れると、顔が能面のように固まるようになってしまった。
「どぶろっく」は、いま中高生を中心に大人気の男性二人組のお笑い芸人だ。一人がギターを持ち、「男の妄想」を美しいハーモニーで歌い上げる。
彼らの「もしかしてだけど」というシリーズは、「もしかしてそれって俺のことを誘っているんじゃないのか?」をテーマに、女に対してこんな妄想した、というエピソードを歌っていくもの。「電車で前に座ってる女が白目をむいて寝ているが、もしかして、俺の股間を見て失神したのではないか」とか、「夜道で前を歩いてた女が、こちらを振り返って急に歩くペースを速めた。もしかして、俺を招くために部屋を片付けたいんじゃないのか?」とか、そういうものである。観客は彼らの“男の妄想”を聞いて「んなわけねーだろ笑」「バカじゃないの笑」という呆れ笑いがこみ上げる、という芸である。
私には、どぶろっくのネタが、痴漢加害者が発想する「『膜』の中のストーリー」そのものにしか聞こえない。テレビのお笑い番組の中では、「ろくでもない男による、突拍子もない勘違い妄想」とされているが、実際の痴漢加害者はこのどぶろっくが歌っている「突拍子もない妄想」を現実だと信じ込んで実行に移しているのである。
中学生の私に“紳士的”に話しかけてきた20代くらいの男が、どんなことを思っていたのか、彼の「『膜』の中のストーリー」をどぶろっく風に書くとこうだ。
「中学生の女の子が駅の本屋で立ち読みしてたんだ もしかしてだけど 俺に家まで送って欲しくて声かけられるの待ってるんじゃないの」
どぶろっくが歌う前に言う「素直になれない全ての女の子たちに捧げます」というキャッチコピーも、シャレにならなくて、鳥肌しか立たない。
そんなどぶろっくがこんなに老若男女に大人気なのは、痴漢などの性犯罪に関する知識が日本の世の中に浸透していないことの表れである。
例えば、お笑い芸人がギターを持って「老人の家に孫のフリして電話して助けを求めてみたんだ もしかしてだけど 間違えて俺の口座に振り込んでくれるんじゃないの」と歌っても、面白くないし不謹慎だしお笑いとして成立しない。それは、「オレオレ詐欺」という犯罪が実際にあることをみんなが十分に知っていて、その犯人はこういう発想で犯罪をしているということがパッとつながるからだ。そして同時に「老人に対する侮辱」も感じ、不快な気持ちになる。
だけど、「どぶろっくを笑う世界」には、痴漢などの性暴力は存在しないことが前提になっている。同じ世の中にそういった被害は実際にあるのに、その被害とどぶろっくは別々のものと認識されていて、観ている人たちの中で、まったくつながっていない。
それは知らされていないからだ。私も2008年にどぶろっくの「男の妄想」芸を観たときから、面白いと思って笑っていた。どぶろっくが好きだった。だけど、2011年から痴漢に関し調べるようになり、今年の4月に「刑事司法とジェンダー」を読んで、やっとどぶろっくと自分が遭っていた痴漢被害がつながった。10代の頃からあんなに痴漢に遭っていたのに、どぶろっくを観ただけでは分からなかった。
性犯罪者のことを「異常者」「一生治らない病気」「性欲によるもの」と片付け、社会全体で無視し、代わりに間違った認識だけを広めているためにその実態を知る機会がない。つまりは性犯罪というものと性犯罪被害者に対してもマトモに向き合ってないということである。そして社会全体が「女性に対しての侮辱」に対して徹底的に鈍感なことが、どぶろっく流行を力強く支えている。
女子中学生が痴漢に遭って「マジ痴漢ってなんなの?! ムカつく!」と言いながら、どぶろっくを見て笑っている、という状況は異常だと思う。
どぶろっくは痴漢加害者の発想をとても的確に表現し、分かりやすくまとめているので、中高生向けに教材として使って「痴漢はこういう心理でいる場合が多い」ということを教えて欲しいし、そこから自分がどうすればいいのか考える授業をしっかりやってほしい。ていうかやってないのがおかしすぎると思う。
実際にはどぶろっくが教材になる時代はまだまだ先だと思うので、私はいろんな人とどぶろっくをとりまく世の中について語ることで、自分はどうしてあんなにたくさん痴漢に遭わなければならなかったのか、考えていきたい。