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モテ実践録(7)一人でいること

2019.09.24

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先日、『腐女子のつづ井さん』著者つづ井さんのnoteを読んだ。

自虐に走らないとは、この連載を始める段階で私も(ささやかながら)決意したことだった。パートナーがいないということに対する「可哀そう」という視線を先取りして、あらゆる場所、あらゆるシチュエーションで「いやあ、彼氏ほしくて」と先手を取って口に出すのは、私もまた身に着けてきた習慣だった(つづ井さんのように円形脱毛症にはならなかったが)。

それはまた、既婚・子持ちが「スタンダード」だと思いがちな、内面化された価値観のメガネで世界を眺めた際、「ほかの人」のために、そこにメンバーとして入っていくために、私は価値観を乱していませんよ、あなたの生き方を否定してはいませんよ、というマナーのようなものだった。

けれども近頃は、生き方の多様性について社会でも広範に認められたのか、「もういいじゃん」と言われることがある。もう結婚しなくていいじゃん、子どもを産まなくていいじゃん、一人で幸せに暮らしている人だっていっぱいいるよ。趣味を持ったりさ、と。それは相手の結婚の有無とは別に投げかけられる言葉であったが、でも、それを言われるとき、私は確かに傷ついていた。

ここで話を、例の「彼氏的な人」に戻そう。

8月。施設にいる祖母のお見舞いもあって、約1週間の休みを私はほぼ実家で過ごした。その間、私は「彼氏的な人」の存在を忘れそうになっていた。ずっと一人でいたので、その習慣が身についている。ふっと思い出した時に、相手がいなくても自分の生活が成立してしまっていると思った。連絡のタイミングがわからない。その間に誕生日を迎えた相手へのお祝いの言葉もその日が終わる頃になって思い出すほどだった。

それから東京に戻り、まもなくして私は体調を崩してしまった。相手は何度か連絡してきて心配の意を伝えてくれたため、体調の悪い間はそんな優しい言葉をありがたいと感じていたが、ようやく体調が戻る頃には、どうして会いに来なかったのか、何もしてくれなかったのか、という疑問にモヤモヤとするようになった。これは、相手に対してというよりも、たとえば「会いにきてほしい」と言えなかった、考えることもできず、後からモヤモヤとしている自分に対して、一番疑問として感じるものだった。

それを相手に伝えると、ショックを受けた様子で、「いつも(私)の顔色をうかがっていて、怖くてしかたない」と言われ、後日友人に話したところ「病気の時にお見舞いにきてもらうのは、ない」と指摘された。

どこまでを一人の時のように過ごし、どこからの時間を分け合うのか。それを若い時から経験的に学び、感覚的にわかっている人とは違い、私は31歳でそれを自分で学んでいかなきゃいけない。

だんだん相手の仕事が忙しくなり、というよりもフリーランスなので、私と会っている時間の分がそのままこれまでの稼働時間からのマイナスとなっているようだった。「一人でいるときは何とか(時間の使い方が)回っていても、それがうまくいかなくなってしまう」とこぼしていた。じゃあ会わないほうがいいのかと問うと、そんなことはないという。うまく調整していけるまでに時間がかかる、というようなことを言っていた。

でもそれは相手だけじゃなく私も同じで、これまで、仕事、友人との時間、趣味とで回していた生活が、相手、という新たなファクターができたことで(体調不良や渡欧の準備が重なったこともあり)、従来通りにはいかない部分が生まれてきた。具体的にはウェブマガジンの更新ができなかったり、気がつくとずっとジョギングに行っていなかったりということである。

以前は「彼氏(的な人)」がいればすべて解決すると思っていたし、何ならば、定期的に性的な関係があれば満足するのではないかとも考えていた。そこで「モテ」への求道は万事めでたしとなるはずだった。しかし、「彼氏(的な人)」は万能薬ではなく、相手も人間である。相手をどこまで思いやるのか、どこまで自分の時間を作るのか。双方の側で、学び、試しながら探っていくしかないのだ。

同じように、自分の魅力は相手に依存するものではなく、自分で作っていくものだ。もちろんこれは相手とは関係ないと言いたいのではなく、相手との生活や関わり方もファクターの一つになると思う。けれども、相手との関係自体が、自分の魅力を決定するとは思えない。

あー、難しい、難しい。

こんなことなら一人でいたほうが楽なのでは、とも思ってしまいそうだが、そうは思わない。気持ちが楽になった面もある。

ここ2年弱、私はずっと同じ本の翻訳に取り組んでいて、と言ってもカフカのように仕事後に家で黙々と作業をするのではなく、初めての単行本の翻訳なのでどのように訳せばいいのか試行錯誤しながら、作業時間のムラも多かった。それでも仕事後に図書館に通うなどして何とか荒訳は一通り終わったものの、本当に仕上げることができるのかは自分としても難しいのではないかと感じていた。

そこで最終的に励まし、相談に乗ってくれたのは「彼氏的な人」だったのだ。「彼氏的な人」が自分の仕事に打ち込む姿を見て、私も頑張ろうと思えた。原稿が仕上がり、メールで出版社に原稿を送って何秒も立たないうちに、真っ先に「彼氏的な人」に連絡すると、ずっと頑張っていた仕事が終わってよかったねと、とても喜んでくれた。

自分がうれしいことについて気持ちを共有できて、しかもそれが何かの効果を狙ったものではなく、自然に一緒に喜んでくれる相手がいることに、私は相手の中で自分のかけらが育っているような気さえした。

以前の私だったなら、うれしいことがあっても誰かに連絡することもなく、自分の中だけでうれしさを感じて、それで十分だった。

しかし、人と分け合うということで、思いもかけない自分の深いところにある感情、「うれしい」という一言ではない、じんわりとした気持ちを長く味わうことができるのだと知った。

そして、後からこの気持ちを振り返った際に、私が(脊髄反射のようにあまり考える時間もないまま)相手に対して真っ先に連絡したことについても、私はうれしさを感じていた。

連絡した瞬間、私は仕事が終わったということだけでなく、そしてその時の自分の気持ちを相手と共有したいと欲していたのだろう。それは、「定期的に寝られればいいや」というような、以前投げやりに抱いていた感情とはまったく違う、自分以外の人間とのていねいな向き合い方だった。

ところで、上に、相手から「怖くてしかたない」と言われたと書いたが、さらっと書いたものの、実際に私は「じゃあ、この人、なんで私と一緒にいるんだろう」と不安になった。

私が相手のことを尊敬していて、相手からも大事にしてもらっているという感覚を享受しながらも、こんなに相手を苦しめて一緒にいる必要はないと思い、相手も「別れよう」という言葉を待っているのでは……と一人で考え始めるとクルクルと歯車が回って、どんどん不安へと落ち込んでいった。

たまたまちょうど同じ時期に、まったく別の、前に会ったことのある人からまた会いたいと何度か連絡があったので、返事をせずに、けれど、もしかするとこれは天啓なのではないかと考えたりもしていた。本当は自分に合うの人はこっちなのかもしれない。そちらの人もいい人なのかもしれない。

しかし未読のままにしていたメッセージに、ある時、性的な内容のものが付け加わったので、私はすごく傷ついた。私は、自らの性に対して自分で決定できるようになりたいと願い、そのように振る舞うように気張っていた時期もあるけれども、それでも自分がイコールとして性的な存在で、それだけを求められると自分の価値が貶められたように感じる。

それまで自分の選択だと思っていたものが、実は相手の目線からは相手が私を消費しただけのように見えていたことを突きつけられて、足元が崩れたように思うのだ。

この時私は、モテはセックスではない、と思った。

そんなことがあったので、なおさら「彼氏的な人」との、日々のちょっとした連絡や、会った時のささいなやりとりに対して、さらに安らぎを感じるようになった。しかし依存することはしたくない。相手と感情を共有できるのはうれしいことだと学んだけれど、しかし蛇口を全開にして何でも相手に垂れ流すのではなく、一人で受け止めたほうがよい感情も、そのタイミングも、あるに違いない。

一人でいること、そして、相手と感情を共有すること、そのバランスについてはさらに研究が必要である。

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(沼ZINE主宰)

沼ZINE主宰。https://numazine.themedia.jp

大学4年生の夏、内定が出ず定員割れの交換留学に申し込む。翌年、全く話せない状態でドイツへ向かい、毎日サービスデーのバーを回る「居酒屋ドイツ語」と呼ばれる勉強法で語学を習得。帰国後、大学院を経て都内の出版社に勤務しながらドイツ語翻訳を行う。2018年、友人とウェブマガジン「沼ZINE」を開始。趣味は映画・演劇・美術鑑賞、へっぽこ旅。

翻訳したドイツ語コミック「マッドジャーマンズ 」が第22回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品、第4回日本翻訳大賞二次選考対象作品に。

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