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第六回 嘘はついてない

菊池ミナト2015.07.14

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支店に戻ると、ホワイトボードの帰社予定時刻の欄が、課長の字で書きかえられていた。課長は予想外に可愛い字を書く。「17:30」の文字を消そうと白板消しを手に取ると、出掛けに見た時にはボード脇でぐちゃぐちゃに置かれていたペンが、黒、赤、緑ときれいに揃えられ、汚れたキャップ周りがきれいに拭われていた。
 
 
「ただいま戻りましたぁ」とフロアに入って大声をあげると、課長が顔をあげてにやりと笑った。そのまま右手で、ちょいちょいと手招きする。他の課員も顔をあげて、私の方を見ている。何年も同じようなことを繰り返しているうちに、大体、その時の表情で、先輩方のうち誰が今日の分の目標を達成していて、誰が目標未達だかわかるようになった。目標にいかなかった先輩の方が、口角が上がっている。目が笑っていないからである。目標を達成した先輩は、大抵、普通の顔をしている。目標を設定したからには、達成して然るべきである。
 
 
一番奥にいる課長のところまで小走りで行くと、課長は「菊池ィ、お疲れさん」と言って笑った。
 
 
「ありがとうございますぅ」
 
 
「はい、グータッチ!」
 
 
「はぁい、グータッチ!」
 
 
課長の手の甲は肉が厚く、拳がはじかれるような弾力がある。
 
 
拳と拳が離れると、課長は立ち上がった。
 
 
「おおい、皆、ちょっといいかぁ」と、課長が発した一言で、何となくこちらを伺っていた課員の目線が、はっきりと課長に集まる。私は一歩退いて、書類の詰まった鞄を椅子にそっと置いた。
 
 
全員揃ったので、今日の需要申告の埋まり具合を発表するのだろうと思った。朝の時点で課長の口から、お前は五十、お前は百、と、支店全体に振られた目標が軽快に割り振られていたが、支店に戻ってきて皆の表情を見る限り、目標未達の人間の方が多そうである。でも課長は不機嫌ではない。どこかで大口が決まって、足りない分まで埋まったんだろうか、とぼんやり考えた。
 
 
ちなみに、ほとんどの場合、百万単位で話をするので、「五十」は「五千万円」、「百」は「一億円」の意味である。
 
 
「おかげさまで、うちの支店に振られた目標は、消化できた。赤村代理の先で大口が決まって、他の皆の目標に足らなかった分は埋まったし、菊池も遅くまで頑張って、責任持って埋めてくれたしな」
 
 
そうか、と思った。
 
 
私より先に帰ってきていた課員の目標までしか、計算上は埋まらなかったのだ。つまり、私が自力で目標の金額を埋めていなければ、支店の目標達成ができないところだったのだ。だから、恵美子さんのお宅を出て電話した時に課長は不機嫌だったのだ。要するに、私の報告次第だったので。
 
 
課長の話を真面目に聞いている顔のまま、脳内で、恐ろしい話よ……と思う。
 
 
「うちは無事、達成できたけれど、他所の支店はできてない所も多いみたいだからな。追加で需要申告の枠、貰えないかどうか本部に申請してて、今夜か明日の朝には追加枠貰える筈だから」
 
 
目が笑っていなかった先輩たちの方から、げんなりとした空気を感じる。赤村代理も普通の顔をしているが、多分げんなりしている。課長の目線は動かない。
 
 
「明日以降もよろしく頼むな、はい以上」
 
 
 
会話するには不自然なほど距離が離れていたにもかかわらず、「菊池ィ、追加いけそうなところあるか?」と課長に尋ねられた私は、さっきまでいた場所に小走りに戻りながら「はい!」と答えていた。
 
 
恵美子さんのご提案に乗っかり、話がまとまった後、恵美子さんは突如、「うちの孫も買うわ」と言った。何を買うのかと思ったら、債券の話であった。
 
 
ミナトちゃんが売らなきゃならない分は終わったの、と聞かれ、素直に、恵美子さんにご案内した分で終わりです、と答えると「前任の子もそう言って一度帰った後、もうちょっといかがですかって言って来たことがあるわ」と言いながらウンウンと頷き、こちらが何も言う前に「まぁ、どうしても駄目だったら、私の分を半分融通してあげることもできるわよね」と言ってまた頷いた。
 
 
果たして、恵美子さんの予想通りになった。まだ確定していないが、十中八九、明日の朝には課員皆にノルマ上乗せである。
 
 
課長は即答した私に満足げに頷き、追加先が恵美子さんの孫だとわかると少し驚いていた。課長と支店長は、課員全員の担当先を完璧に把握している。
 
 
「あそこのお孫さん、接触履歴一件も入ってないだろ。どうしたんだ、休みで家にいたのか」
 
 
「いえ、恵美子さんからご紹介いただけることになりましたぁ」
 
 
嘘はついていない。この瞬間、一瞬、「課長、ちょっといいですか」と切り出して別室に行き、「実は」と打ち明けることも考えたが、できなかった。お客様と個人的な接触を図ることは、確実に就業規則に違反していたが、何より破談になった時に恥ずかしすぎる。
 
 
私の思案顔を課長は別の意味にとったらしく、「まぁ、お客さんのご厚意は有難いけど、駄目だった時に備えて他の候補先も何件か当たっとけよ」と言った。嘘はつかないまでも本当のことも報告していなかったにもかかわらず、結局、課長から頂戴したアドバイスは、新規顧客となった恵美子さんの孫の債券の購入にも、お見合いにも、どちらにも当てはまるものであった。
 
 
 
恵美子さんからはもう一つ、「手続の前に、あなたの釣書を持ってらっしゃい」とも言われていた。釣書が何であるか知らなかった私に、恵美子さんは「釣書っていうのはね、履歴書みたいなものよ。お母さんに聞いてごらんなさい」とにこやかに教えてくれた。
 
 
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菊池ミナト(きくち・みなと)

主婦
リーマンショック前の好景気に乗って金融業界大手に滑り込んだアラサー。
営業中、顧客に日本刀(模造)で威嚇された過去を持つ。
中堅になったところで、会社に申し訳ないと思いつつ退社。(結婚に伴う)
現在は配偶者と共に暮らし三度三度のごはんを作る日々。
フクロウかミミズクが飼いたい。 

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