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11月9日、30年前のこの日の夜にベルリンの壁が崩壊した。当時中学生だった私はNHKのニュースで人々が壁をたたき壊したり、よじ登って歓声をあげる様子を父と一緒に見ていた。それよりもさらに20年程前に「島」であった西ベルリンへ飛行機で飛んで入ったことのある父が「こんなことが本当に起こるとはなあ……」と感慨深げに言ったのを覚えている。まさかその国に自分が住むことになろうとは、当時の私にはもちろん思いもよらなかった。

今日、2019年11月9日は朝からどのメディアももちろんそのニュースで持ち切りだ。この数日はラジオでも特集プログラムが組まれており、あの当時を振り返る人々のインタビューが多く紹介されていた。それらを聞くたびに当時の西ドイツの首都で生まれ育った夫は、義母と共にその様子をテレビで見ながら何時間もビデオ録画した、という思い出話をする。まさかあんなことが本当に起こるとは、とドイツ人の口からも同じ言葉がこぼれるのは我が家だけではない。30年前とはそんなに昔の話ではない。だから私の知人友人には東側で生まれ育った人たちも結構いて、物資が配給制で足りなかったので自給自足した、とか、西側のものは普通に手に入らなかったとか、まるで戦時中な話は同年代の彼らのリアルな体験談であっても、戦後数十年の時代の日本に育った私には想像しがたい。

ラジオで語っていたある40代の人は当時の東ドイツでの思い出をこう話す。壁が崩壊するその様子を両親がテレビで見ていたのを見て、ああ、うちにもテレビってあったんだと初めて知ったとか。西側の情報が手に入るテレビはタブーだったから、それまでどこかにしまい込まれていたんだそうだ。

そんな物がないない話も大変だが、もっと考えさせられるのは、独裁体制だった当時の共産圏で言論統制が敷かれていた中で、人間心理がどのように人間関係に影響を及ぼしていたか、という話だ。
「生まれは東ベルリン」と胸を張って経歴に書くアーティストの友人は、私と同い年。彼は公共施設を勝手に占拠してみたり、それらをこっそりアレンジした作品を発表したりと、ときには警察沙汰寸前になるような挑発的な作品を作り続ける作家である。そんな「反社会的」なエピソードをいたずらっぽく屈託なく笑いながら話してくれる彼があるとき真顔で話してくれたエピソードは、その大胆不敵さとはかけ離れたものだった。

東西ドイツが統一された後、旧東ドイツで行われていた市民の監視の為の諜報活動、シュタージについての調査が始まり、どんな人がどんな活動をし、どんな人の情報を集めていたのか、その情報が開示されていった。
いわゆる監視社会ではその諜報員があちこちにそっと潜んでいて、近所の人が、または友人や家族にシュタージがいて自分の行動や言動を密告されていた、ということがどんどん明らかになっていった。名の知れたジャーナリストだった友人のお父さんはそのとき、なんと元シュタージだったというスキャンダルが暴露され、新聞沙汰になった。
まさか自分の父がシュタージだったとは知らなかった友人だが「でもね、あのときは皆で父さんを支えようって家族が一致団結したんだ」。そんな彼の話を聞いていた私たちは言葉を失った。

似たような話は別の友人からも聞いたことがある。音楽家の彼はポーランド出身で、東ドイツと同じような状況を体験している。彼もまた、お父さんや叔父叔母さんたちが、実はスパイだったのではないかといまだに思っているという。既に亡くなっているのでもう確かめることはできないけれど、当時も家族は皆知って知らぬふりをしていた、という。家族の仲でさえ、口にしてはならないタブーだったのだ。

あるとき、彼はフランスへ音楽留学できるかもしれないチャンスを得た。当時の共産圏では芸術家は優遇されていたし、西側の国への留学となれば、それはいわゆる国費留学生でなかなか名誉なことだった。結局彼は試験に落ち、そのチャンスは手に入らなかったのだけど、あとで気づいたのは、なぜかその留学には父が付き添う、という話になっていたそうで、それは父が西側へ諜報活動へ出る口実を作るためだったのではないかということだ。しかしそのことも、憶測として残るだけになってしまったという。

それらの話を聞くと不思議に思うのは、私がそんな経験をまったく知らないからで、彼らにとってはそれが日常だった。監視し合うことが当たり前の社会で、近しい仲であっても訊くことができない、というのは、どういう心理なのだろう。

独裁体制の中で秘密警察は怖い、というのは想像できる。けれども実際のところ、監視社会が機能してしまうのはそんなわかりやすい理由ではなく、むしろ、家族間、友人間ですら疑心暗鬼になり本音を口にすることを自ら止めてしまうような人間心理が働くからであって、それがなんとも不気味で想像しがたく、しかし私たちの周りにいつのまにかじわじわと浸透してしまうものではないかと思うのだ。それは決して良いことではないと感じていても、しかし悪いことなのか?と問われても答えようがない、という感じだろうか。

それが当たり前となった社会では、そのささやかな違和感は直視してはならないものだし、その違和感を最も感じているだろう当事者たちの気持ちを家族や友人として思いやっていたこともあったのではないか。そんな忖度が根づいてしまった社会は、やがて人々の自由を奪ってがんじがらめにしながらも一つの社会の枠組みとして「安定」し、しかし同じ人々の自由への欲求に耐えられなくなって崩壊していった。

壁が崩壊し、東西が統一して30年経った現在のドイツには、しかしまた別の壁が現れてきている。新たな極右の台頭による外国人やユダヤ人などのマイノリティへの差別問題は、年々大きくなってきているが、その問題の多くが東側で起こっており、その根本には残念ながら30年前の壁の痕跡がまだあると分析されている。

ラジオの解説者の言葉を夫が繰り返して言った。「誰かが声を上げないと、こういう社会はそのまま続いていくんだよね」

「こんなことが本当に起こるとは」と皆が思っていたことが起きたのは、あのとき、声を上げ始めた人がいて、そして声を出し続けた人々がいたからである。あんな忖度の時代は二度と起きてはならない、というのが、ナチスドイツの弾圧や東ドイツの監視社会を経験してきたドイツの人々が民主主義を守るために行動を起こす理由である。

旧東側出身の友人たちの話はしかし、なんとなく日本の現在にも重なってきているような気がする。ちょうど最近、政府と方向性や意見が異なる文化事業などへの助成取り止めが次々と幾つも報道されていることをふっと思い出し、またそんな時代が日本にも来るのか?と嫌な予感を振り払おうとしてみるのだけど……。

© Aki Nakazawa
写真1:上段が旧東ドイツで使用されていた硬貨です。当時はドイツマルクが東西共に使われていましたが、単位は同じといえど、違う国の通貨として価値も違ったわけです。この硬貨は1マルク以下のペヒニ。左から、50、20、10ペヒニと並びます。下段は現在のユーロで、50、20、10セント。

© Aki Nakazawa

写真2:その表のデザインはこんな感じ。ユーロは加盟国共通の通貨なので、同じ価値でも加盟各国で発行された違うデザインの硬貨があちこちに出回ります。真ん中はスペイン発行のもの。対して旧東ドイツのものは同じデザインで、重量もかなり軽い。

© Aki Nakazawa

写真3:東ドイツの正式名称、ドイツ民主共和国のDEUTSCHE DEMOKRATISCHE REPUBLIKと刻印されています。略してDDRと呼ばれたこの国の当時を思い起こさせるデザインや慣習も、苦い思い出と共に、郷愁を誘うこともあるようです。その郷愁が間違った方行に進まないことを願うこの頃です。

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中沢あき(なかざわ・あき)

映像作家、キュレーターとして様々な映像関連の施設やイベントに携わる。2005年より在独。以降、ドイツ及び欧州の映画祭のアドバイザーやコーディネートなどを担当。また自らの作品制作や展示も行っている。その他、ドイツの日常生活や文化の紹介や執筆、翻訳なども手がけている。 

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