幸せな毒娘 Vol.55 韓流ブームの陰で不可視化される女性──「K-pop Demon Hunters」現象への一考察
2025.12.09
ここ数か月、世界のエンターテインメント市場で韓国発コンテンツの勢いは留まるところを知らず、もはや「ブーム」という言葉さえも追いつかない状況となっております。NetflixのK-pop Demon Hunters(以下「ケデホン」)などはその代表格であり、韓国をよく知らないオーストラリアの地方ですら主題歌「Golden」が自然と流れ、まるで世界が韓国文化に魅了されたかのような空気が醸成されています。しかしながら、こうした現象をそのまま「韓流の成功」と受け取ることには、どうしても慎重にならざるを得ません。
その理由の一端は、ケデホンが“韓国的”な外見をまといながら、実際には韓国社会の現実をほとんど反映していないという点にあります。主題歌を歌う女性アーティストは高い実力を備えていながら、韓国国内では「女性アイドルらしくない声質」という実に時代錯誤な理由でデビューを阻まれた過去を持ちます。才能よりも“規格化された女性らしさ”が優先される現実は、国際的成功を自慢するにはあまりにも皮肉な背景と言えるでしょう。
さらに興味深いのは、作品の制作者が明言したテーマでさえ国内で都合よく書き換えられるという点です。監督がケデホンのメインのテーマは「シスターフッド(女性同士の連帯)」と語ったにもかかわらず、韓国のメディアはこれを「家族愛」と訳し、女性を主語とする文脈が巧妙に薄められてしまいました。この“女性の不可視化”が偶然であると信じるには、あまりにも同種の事例が多すぎるように感じられます。
たとえば、ミシェル・ヨー(楊紫瓊)氏がアカデミー賞を受賞した際、彼女は力強い言葉で女性たちにメッセージを送られました。
「Ladies, don’t let anybody tell you “You are ever past your prime.” Never give up.」
(「女性の皆さん、どうか誰にも『あなたの全盛期は過ぎた』などと言わせないでください。諦めないでください。」)
しかし韓国で報じられた映像では、なんとこの呼びかけの核心である「Ladies(女性の皆さん)」という部分が切り落とされていたのです。女性に向けられた言葉が女性に届く前に削除される―これほど象徴的な出来事はそう多くはありません。
こうした国内での女性削除の構造があるにもかかわらず、海外ではケデホンが「女性中心の韓国作品」として称賛されてしまう。この乖離はもはや滑稽で、笑うべきか、嘆くべきか迷ってしまうほどです。外から眺める韓流は進歩的で華やかに見えるかもしれませんが、その背後で女性たちの声がどれほど排除されているのかは、ほとんど語られません。
要するに、ケデホンは確かに韓国的な要素をまといながら、その内容も制作環境も韓国の現実とは大きく異なり、むしろ“韓国で作られなかったからこそ”優れた作品となり得た側面があるのです。では果たして、このような作品を本当に“韓流”と呼べるのでしょうか。
国際的評価が高まることそのものは歓迎すべきことです。しかし、その輝きが国内に存在する問題の影を覆い隠し、「韓国は女性に開かれた社会である」という都合のよい幻想を補強するのであれば、私たちはその華々しさに無批判であってはならないでしょう。
韓流ブームの裏側で、誰の声が消され、どの物語が改ざんされているのか。輸出される“韓国風”の文化の中に、当の韓国社会で生きる女性たちの現実がどれほど反映されているのか――この問いを避けてしまうことこそ、最も危険なのではないでしょうか。














